チた。
「ところが、そうなると、クリヴォフ事件の局面が全然逆転してしまうのです。もし、夫人がその音を聴いたとすれば、当然貴方がた二人の方に後退《あとずさ》りしてゆくでしょうからね。そこで旗太郎さん、その時、弓《キュー》に代って貴方の手に握られたものがあったはずです。いや、むしろ直截《ちょくせつ》に云いましょう。だいたい装飾灯《シャンデリヤ》が再び点いた時に、左|利《きき》であるべき貴方が何故、弓《キュー》を右に提琴《ヴァイオリン》を左に持っていたのですか」
と法水の凄愴な気力から、迸《ほとばし》り落ちてきたものに圧せられて、旗太郎はまったく化石したように硬くなってしまった。それは、恐らく彼にとって、それまでは想像もつかぬほど、意外なものであったに相違ない。法水は、相手を弄《もてあそ》ぶような態度で、ゆったり口を開いた。
「ところで、旗太郎さん、波蘭《ポーランド》の諺《ことわざ》に、提琴奏者《ヴァイオリニスト》は引いて殺す――と云うのがあるのを御存じですか。事実、ロムブローゾが称讃したというライブマイルの『能才及び天才の発達』を見ると、その中に、指が痳痺[#「痳痺」はママ]してきたシューマンやショパン、それから改訂版では、提琴家《ヴァイオリニスト》のイザイエの苦悩などが挙げられていて、なおかつ音楽家の全生命たる、骨間筋([#ここから割り注]指の筋肉[#ここで割り注終わり])にも言及しているのです。それによるとライブマイルは、急激な力働がその筋に痙攣《けいれん》を起させる――と説いています。しかし、勿論それは、この場合結論として確実なものではありません。けれども、貴方が演奏家である限りは、とうていその慣性を無視することは出来まいと思われるのです。たぶんあの後には、左手の二つの指で、弓《キュー》を持つのが不可能だったのではありませんか」
「す、すると、もうそれだけですか――貴方の降霊術《ティシュリュッケン》と云うのは? 机の脚をがたつかせて、厭《いや》に耳ざわりな……」とあの不気味な早熟児は、満面に引っ痙《つ》れたような憎悪を燃やせて、やっと嗄《か》すれ出たような声を出した。しかし、法水はさらに急追を休めず、「いやどうして、それこそ|正確な中庸な体系《ジャスト・ミリュウ・システム》――なんですよ。それから、貴方は人形の名を、いつぞやダンネベルグ夫人に書かせましたっけね」と驚くべき言葉を放って、その大見得が、一座を昂奮の絶頂にせり上げてしまった。
「実は、先刻《さっき》神意審問会の情景を再現してみたのですが、その場ではしなく、ダンネベルグ夫人が、驚くべき第二視力者《セカンド・サイター》であり、彼女に比斯呈利《ヒステリー》性幻視力が具わっていたのを知ることが出来ました。そうなると、当然発作が起った場合、あの方の痳痺[#「痳痺」はママ]した方の手には、自働手記([#ここから割り注]心理学者ジャネーの実験に端を発したもので、知らぬ間に筆を持たせた者の痺れた手を、気付かぬように握って、両三回文字を書かせると、その握った手を離した後でも、その通りの文字を自分の筆跡でしたためる――と云う、一種の変態心理現象。[#ここで割り注終わり])が可能になるではありませんか。いや、伸子さんの室《へや》の扉《ドア》際にあった、鉤裂《かぎざ》きの跡を見ても、夫人の右手が、あの当時痳痺[#「痳痺」はママ]していたことが判るんですよ。しかし、あの場合は、それがもう一段|蜻蛉《とんぼ》返りを打って、さらに異様な矛盾を起してしまったのでした。と云うのは、利手《ききて》の異なる方の手で、刺戟を与えた場合には、時折要求した文字ではなく、それに類似したものを書くということなんです。勿論あの夜は、伸子さんが花瓶を倒し、それと入れ代りにダンネベルグ夫人が入って来て、しかも激奮に燃えた夫人は、寝室の帷幕《カーテン》の間から、右肩のみを現わしていました。ですから、時やよしと、貴方は自働手記を試みたのでしたね。しかし、結果において夫人が認《したた》めたものは、貴方が要求したそれとは異なっていたのです」と卓上の紙片に、法水は次の二字を認《したた》め、とくにその中央の三字を円で囲んだ。
[#天から2字下げ]Th 〔e're`〕[#「〔e're`〕」は破線の罫囲み] se S ere[#「ere」は破線の罫囲み] na
とたんに一同の口から、合したような呻《うめ》きの声が洩れた。ことにセレナ夫人は、憤ると云うよりも、むしろあまりに意外な事実なので、ぼんやり旗太郎を瞶《みつ》めたまま自失してしまった。旗太郎はタラタラと膏汗《あぶらあせ》を流し、全身を鞭索《むちなわ》のようにくねらせて、激怒が声を波打たせていった。
「法水さん、貴方《ヴォルゲボーレン》――いや閣下《ホウホヴォルゲボーレン》!
前へ
次へ
全175ページ中167ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング