機があり、色々な関節を動かす細い真鍮棒が後光のような放射線を作っていて、その間に、弾条《ぜんまい》を巻く突起と制動機とが見えた。続いて熊城は、人形の全身を嗅《か》ぎ廻ったり、拡大鏡で指紋や指型を探しはじめたが、何一つ彼の神経に触れたものはなかったらしい。法水はそれが済むのを待って、
「とにかく、人形の性能は多寡《たか》の知れたものだよ。歩き、停まり、手を振り、物を握って離す――それだけの事だ。仮令《たとえ》この室から出たにしても、あの創紋を彫るなどとはとんでもない妄想さ。そろそろダンネベルグ夫人の筆跡も幻覚に近くなったかな」と思う壺らしい結論を云ったけれども、しかし彼の心中には、薄れ行った人形の影に代って、とうてい拭い去ることの出来ない疑問が残されてしまった。法水は続いて、
「だが熊城君、犯人は何故、人形が鍵を下したように見せなければならなかったのだろうね。もっとも、事件にグイグイ神秘を重ねてゆこうとしたのか、それとも、自分の優越を誇りたいためでもあったかもしれない。しかし、人形の神秘を強調するのだとしたら、かえってそんな小細工をやるよりも、いっそ扉《ドア》を開け放しにして、人形の指に洋橙《オレンジ》の汁でも附けておいた方が効果的じゃないか。ああ、犯人はどうして僕に、糸と人形の[#「糸と人形の」に傍点]技巧《トリック》を土産に置いて行ったのだろう[#「を土産に置いて行ったのだろう」に傍点]?」としばらく懐疑に悶《もだ》えるような表情をしていたが、「とにかく、人形を動かして見ることにしよう」と云って眼の光を消した。
やがて、人形は非常に緩慢な速度で、特有の機械的な無器用な恰好で歩き出した。ところが、そのコトリと踏む一歩ごとに、リリリーン、リリリーンと、囁《ささや》くような美しい顫音《せんおん》が響いてきたのである。それはまさしく金属線の震動音で、人形のどこかにそういう装置があって、それが体腔の空洞で共鳴されたものに違いなかった。こうして、法水の推理によって、人形を裁断する機微が紙一枚の際《きわ》どさに残されたけれども、今聴いた音響こそは、まさしくそれを左右する鍵のように思われた。この重大な発見を最後に、三人は人形の室《へや》を出て行ったのであった。
最初は、続いて階下の薬物室を調べるような法水の口吻《くちぶり》だったが、彼はにわかに予定を変えて、古式具足の列《なら》んでいる拱廊《そでろうか》の中に入って行った。そして、円廊に開かれている扉際《とぎわ》に立ち、じっと前方に瞳を凝らしはじめた。円廊の対岸には、二つの驚くほど涜神《とくしん》的な石灰面《フレスコ》が壁面を占めていた。右側のは処女受胎の図で、いかにも貧血的な相をした聖母《マリヤ》が左端に立ち、右方には旧約聖書の聖人達が集っていて、それがみな掌《てのひら》で両眼を覆い、その間に立ったエホバが、性慾的な眼でじいっと聖母《マリヤ》を瞶《みつ》めている。左側の「カルバリ山の翌朝」とでも云いたい画因のものには、右端に死後強直を克明な線で現わした十字架の耶蘇《ヤソ》があり、それに向って、怯懦《きょうだ》な卑屈な恰好をした使徒達が、怖る怖る近寄って行く光景が描かれていた。法水は取り出した莨《たばこ》を、思い直したように函《ケース》の中に戻して、途方もない質問を発した。
「支倉君、君はボーデの法則を知っているかい――海王星以外の惑星の距離を、簡単な倍数公式で現わしてゆくのを。もし知っているのなら、それを、この拱廊《そでろうか》でどういう具合に使うね」
「ボーデの法則※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事は奇問に驚いて問い返したが、重なる法水の不可解な言動に、熊城と苦々しい視線を合わせて、「それでは、あの二つの画に君の空論を批判してもらうんだね。どうだい、あの辛辣《しんらつ》な聖書観は。たぶん、あんな絵が好きらしいフォイエルバッハという男は、君みたいな飾弁家じゃなかろうと思うんだ」
しかし、法水はかえって検事の言に微笑《ほほえみ》を洩らして、それから拱廊を出て死体のある室《へや》に戻ると、そこには驚くべき報告が待ち構えていた。給仕長川那部易介がいつの間にか姿を消しているという事だった。昨夜図書掛りの久我鎮子とともにダンネベルグ夫人に附添っていて、熊城の疑惑が一番深かったのであるが、それだけに、易介の失踪を知ると、彼はさも満足気に両手を揉みながら、
「すると、十時半に僕の訊問が終ったのだから、それから鑑識課員が掌紋を採りに行ったと云う――現在一時までの間だな、そうそう法水君、これが易介を模本《モデル》にしたというそうだが」と、扉の脇にある二人像を指差して、「この事は、僕には既《とう》から判っていたのだよ。あの侏儒《こびと》の傴僂《せむし》が、この事件でどういう役を勤めていたか――だ。
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