v人に、附き添っていたのだからね。その一事が、とうてい避けられない、先入主になってしまうのだよ。だから、仮令《たとえ》その人物のために、巧みに導かれて、あの乾板の破片があった場所に行き、しかもその翌日殺されたにしてもだ。当然、易介は共犯者と目されるに違いないのだ。そして、主犯の見当がその一人にではなく、むしろ易介と親しかった圏内に落ちるのが、当然だと云わなければならんだろう。それから、園芸靴の方には、いったんは消えたはずだった、クリヴォフ夫人の顔が、また現われているのだがね。ああ、そのクリヴォフなんだよ。問題はあのカウカサス猶太人《ジュウ》の足にあったのだ。ところで熊城君、君は、ババンスキイ痛点という言葉を知っているかね。それは、クリヴォフ夫人のような、初期の脊髄癆《せきずいろう》患者によく見る徴候で、後踵《こうしょう》部に現われる痛点を指して云うのだよ。しかも、それを重圧すると、恐らく歩行には耐えられまいと思われるほどの疼痛《とうつう》を覚えるんだが……」
しかし、その一言に武具室の惨劇を思い合わせれば、まず狂気の沙汰としか信じられないのだった。熊城は吃驚《びっくり》して眼を円《まる》くしたが、それを検事が抑えて、
「勿論偶発的なものには違いないだろうが、しかし、僕等の肝臓に変調をきたしていない限りだ。たしか、あの園芸靴には、重点が後踵部にあったはずだったがね。とにかく法水君、問題を童話から、他の話に転じてもらおう」
「そうは云うがね、あのファウスト博士は、アベルスの『犯罪形態学《フェルブレッヘリッシェ・モルフォロギイ》』にもない新手法を発見したのだよ。もしあの園芸靴を、逆さに履いたのだとしたら、どうなんだろう」と法水は、皮肉な微笑を返して云った。「もっとも、あれが純護謨製《ピュアラバァ》の長靴だからこそ可能な話なんだが、しかし、その方法はと云っても、爪先を靴の踵《かかと》に入れるばかりではない。つまり、踵の足型の中へ全部入れずに、幾分持ち上げ気味にして、爪先で靴の踵の部分を強く押しながら歩くのだよ、そうすると、踵の下になった靴の皮が自然二つ折れて、ちょうど支《か》い物を当てがったような恰好になる。したがって、靴の踵に加えた力が直接爪先の上には落ちずに、幾分そこから下った辺りに加わるだろうからね。いかにも、足の矮小《わいしょう》なものが、大きな靴を履いたような形が現われるのだ。のみならず、それが弛《ゆる》んだ弾条《スプリング》のように不規則な弾縮をするから、そのつどに、加わってくる力が異なるという訳だろう。したがって、どの靴跡にも、一々わずかながらも差異が現われてくるのだ。すると、右足に左靴、左足に右靴を履くことになるから、歩線の往路が復路となり、復路が往路となって、すべてが逆転してしまうのだよ。その証拠と云うのは、乾板のある場所で廻転した際と、枯芝《かれしば》を跨《また》ぎ越した時と――その二つの場合に、利足《ききあし》がどっちの足か吟味してみるんだ。そうしてみたら、この差数が明確に算出されてくるじゃないか。で、そうなると支倉《はぜくら》君、どうしてもクリヴォフ夫人が、この詭計《トリック》を使わねばならなかった――という意味が明瞭《はっきり》するだろう。それは単に、あの偽装足跡を残すばかりではなかったのだ。なにより、最も弱点であるところの踵《かかと》を保護して、自分の顔を足跡から消してしまうにあったのだよ。そして、その行動の秘密と云うのが、あの乾板の破片にあった――と僕は結論したいのだ」
熊城は莨《たばこ》を口から放して、驚いたように法水の顔を瞶《みつ》めていた。が、やがて軽い吐息をついて、「なるほど……。しかし、ファウスト博士の本体は、武具室のクリヴォフ以外にはないはずだぜ。もし、それを証明出来ないのだったら、いっそのこと、君の嬉劇《シュポルト》的な散策は、やめにしてくれ給え」
それを聴くと、法水は押収してきた火術弩《かじゅつど》を取り上げて、その本弭《もとはじ》([#ここから割り注]弓の末端[#ここで割り注終わり])の部分を強く卓上に叩き付けた。すると意外にも、その弦《つる》の中から、白い粉末がこぼれ出たのであった。法水は、唖然となった二人を尻眼に語りはじめた。
「やはり、犯人は僕等を欺かなかったのだ。この燃えたラミイの粉末が、とりもなおさず、あの、|火精よ燃えたけれ《ザラマンダー・ゾル・グルーエン》――なんだよ。ラミイ――それをトリウムとセリウムの溶液に浸せば、燈火|瓦斯《ガス》のマントル材料になるし、その繊維は強靱《きょうじん》な代りに、些細《ささい》な熱にも変化しやすいのだ。実は、その繊維の撚《よ》ったものを、二本|甘瓢《かんぴょう》形※[#「∪/∩」(fig1317_48.png)」、382−5]に組んで
前へ
次へ
全175ページ中139ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング