、と、あるいは僕の浅学をお嗤《わら》いになるでしょうが、事実僕は、未だもって『Discorsi《ディスコルシ》』([#ここから割り注]十六世紀の前半フィレンツェの外交家マキァヴェリ著「陰謀史」[#ここで割り注終わり])さえも読んでいないのですよ、ですから、御覧のとおりの開けっ放しで、勿論|陥穽《わな》も計謀《たくらみ》もありっこないのです。いや、いっそこの際、事件の帰趨をお話して、御存じのない部分までお耳に入れましょう。そして、その上で、さらに御同意を得るとしますかな」と肱《ひじ》を膝の上でずらし、相手を見据えたまま法水は上体を傾《かし》げた。
「で、それと云うのは、この事件の動機に、三つの潮流があるということなのです」
「なんですと、動機に三つの潮流が……。いや、たしかそれは一つのはずです。法水さん、貴方《あんた》は津多子を――遺産の配分に洩れた一人をお忘れかな」
「いや、それはともかくとして、まずお聴き願いましょう」と法水は相手を制して、最初ディグスビイを挙げた。そして十二宮秘密記法の解読にはじめてホルバインの『|死の舞踏《トーテン・タンツ》』を語り、それに記されている呪詛《じゅそ》の意志を述べてから、「つまり、その問題は四十余年の昔、かつて算哲《さんてつ》が外遊した当時の秘事だったのです。それによると、算哲・ディグスビイ・テレーズと――この三人の間に、狂わしい三角恋愛関係のあった事が明らかになります。そして、恐らくその結果、ディグスビイは猶太《ユダヤ》人であるがために敗北したのでしょう。しかし、その後になって、ディグスビイに思いがけない機会が訪れたと云うのは、つまり黒死館の建設なのですよ。ねえレヴェズさん、いったいディグスビイは、敗北に酬ゆるに何をもってしたことでしょうか。その毒念|一途《いちず》の、酷烈をきわめた意志が形となったものは……。ですから、そうなって、さしずめ想い起されてくるのが、過去三変死事件の内容でしょう。そのいずれもに動機の不明だった点が、実に異様な示唆《しさ》を起してくるのです。また、建設後五年目には、算哲が内部を改修しています。恐らくそれと云うのも、ディグスビイの報復を、惧《おそ》れた上での処置ではなかったのでしょうか。しかし、何より駭《おどろ》かされるのは、ディグスビイが四十余年後の今日を予言していて、あの奇文の中に、人形の出現が記されていることなのです。ああ、あのディグスビイの毒念が、未だ黒死館のどこかに残されているような気がしてならないじゃありませんか。しかも、確かそれは、人智を超絶した不思議な化体《けたい》に相違ないのです。いや、僕はもっと極言しましょう。蘭貢《ラングーン》で投身したというディグスビイの終焉《しゅうえん》にも、その真否を吟味せねばならぬ必要がある――と」
「ふむ、ディグスビイ……。あの方が事実もし生きておられるなら、ちょうど今年で八十になったはずです。しかし法水さん、貴方が童謡と云われたのは、つまりそれだけの事ですかな」とレヴェズは依然嘲侮的な態度を変えないのだった。しかし、法水は関《かま》わずに、冷然と次の項目に移った。
「云うまでもなく、ディグスビイの無稽《むけい》な妄想と僕の杞憂《きゆう》とが、偶然一致したのかもしれません。しかし、次の算哲の件《くだ》りになると、まず誰しも思い過しとは思わないものが、実に異様な生気を帯びてくるのですよ。勿論、算哲が遺産の配分について採《と》った処置は、明白な動機の一つです。また、それには、旗太郎以下津多子に至る五人の一族が、各自各様の理由でもって包含されているのです。しかし、それ以外もう一つの不審と云うのは、ほかでもない遺言書にある制裁の条項でして、それが、実行上ほとんど不可能だと思われるからです。ねえレヴェズさん、仮令《たとえ》ば恋愛というような心的なものは、それをどうして立証するのでしょうね。ですから、そこに算哲の不可解な意志が窺《うかが》えるように思われて、つまり僕にとれば、開封がもたらした新しい疑惑と云っても差支えないのですよ。しかも、それは単独に切り離されているものではなくて、どうやら一縷《いちる》の脈絡が……。別に僕が、内在的動因と呼んでいるのがあって、その二点の間を通《かよ》っているものがあると思われるのです。そこでレヴェズさん、僕は思いきって露骨《あけすけ》に云いますがね。何故、貴方がた四人の生地と身分とが、公録のものと異なっているのでしょうか。で、その一例を挙げればクリヴォフ夫人ですが、表面あの方は、カウカサス区地主の五女であると云われている。しかし、その実|猶太《ユダヤ》人ではないでしょうか」
「ウーム、いったいそれを、どうして知られたのです」とレヴェズは、思わず眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》
前へ 次へ
全175ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング