フ左心室――それもほとんど端れに当る部分を刺し貫いていたのですが、あまりに自殺の状況が顕著だったために、その屍体に剖見を要求するまでには至らなかったのでした。そうなると第一の疑問は、左肺の下葉部を貫いたところで、それがはたして、即死に価するものかどうか――という事です。その証拠には、外科手術の比較的幼稚だった南亜戦争当時でさえも、後送距離の短い場合は、そのほとんど全部が快癒しているのですからね。そうそう、その南亜戦争でしたが……」と法水は莨《たばこ》の端をグイと噛み締めて、声音《こわね》を沈めむしろ怖れに近い色を泛《うか》べた。「ところで、メーキンスが編纂した、『南亜戦争軍陣医学集録』という報告集があるのですが、その中に、ほとんど算哲の場合を髣髴《ほうふつ》とする奇蹟が挙げられているのですよ。それは、格闘中右胸上部に洋剣《サーベル》を刺されたままになっていた竜騎兵伍長が、それから六十時間後に、棺中に蘇生したと云うのです。しかし、編者である名外科医のメーキンスは、それに次のような見解を与えました。――死因は、たぶん上大静脈を洋剣《サーベル》の背で圧迫したために、脈管が一時|狭窄《きょうさく》されて、それが心臓への注血を激減させたに相違ない。しかし、その鬱血腫脹している脈管は、屍体の位置が異なったりするたびに、血胸血液が流動するので、それがため、一種物理的な影響をうけたのであろう。つまり、その作用と云うのは、往々に屍体の心臓を蘇生させることのある、ある種の摩擦《マッサージ》に類したものだったと思われる。何故なら、元来心臓と云うものは理学的臓器であり、また、ブラウンセカール教授の言のごとく、恐らく絶命している間でも、聴診や触診ではとうてい聴き取ることの出来ぬ、細微《かすか》な鼓動が続いていたに相違ないのだから([#ここから割り注]巴里大学教授ブラウンセカールと講師シオは、人体の心臓を聞いてそれがなお鼓動を続けていたという数十例を報告している。すなわち、心臓がなお充分な力を持っていることを証明するのであって、換言すれば、それは心動の完全な停止を証明しないのである。勿論その鼓動は、外部では聴えない[#ここで割り注終わり])――とメーキンスはこういう推断を下しているのです。そうなると久我さん、僕はこの疑心暗鬼を、いったいどうすればいいのでしょうか」
と法水は、算哲の心臓の位置が異なっていることから、死者の再生などと云うよりも、もっともっと科学的論拠の確かな、一つの懸念を濃厚にするのだった。が、その時、心中で凄愴《せいそう》な黙闘を続けていた鎮子に、突如必死の気配が閃《ひらめ》いた。あくまで真実に対して良心的な彼女は、恐怖も不安も何もかも押し切ってしまったのだった。
「ああ、何もかも申し上げましょう。いかにも算哲様は、右に心臓を持った特異体質者でございました。ですけれど、何より私には、算哲様が自殺なされるのに、右肺を突いたという意志が疑わしく思われるのです。それで、試しに私は、屍体の皮下にアムモニア注射をいたしたのでございました。ところが、それには明瞭《はっきり》と、生体特有の赤色が泛《うか》んでくるではありませんか。それに、なんという怖ろしい事でしたろう。あの糸が、埋葬した翌朝には切れていたのでございましたわ。ですけど、私にはとうてい、算哲様の墓※[#「穴かんむり/石」、319−1]《ぼこう》を訪れる勇気はございませんでした」
「その糸と云うのは」検事が鋭く問い返した。
「それは、こうなのでございます」鎮子は言下に云い続けた。「実を申しますと、算哲様はひどく早期の埋葬をお懼《おそ》れになった方で、この館の建設当初にも、大規模の地下墓※[#「穴かんむり/石」、319−4]《クリプト》をお作りなったほどでございます。そして、それには秘かに、コルニツェ・カルニツキー([#ここから割り注]露皇帝アレキサンダー三世侍従[#ここで割り注終わり])式に似た、早期埋葬防止装置を設けて置いたのでした。ですから、埋葬式の夜、私はまんじりともせずに、あの電鈴《でんれい》の鳴るのをひたすら待ち佗《わ》びておりました。ところが、その夜は何事もないので、翌朝大雨の夜が明けるのを待って、念のために、裏庭の墓※[#「穴かんむり/石」、319−8]を見にまいりました。何故かと申しますなら、あの周囲《ぐるり》にある七葉樹《とち》の茂みの中には、電鈴を鳴らす開閉器《スイッチ》が隠されているからでございます。するとどうでございましたろう。その開閉器《スイッチ》の間には、山雀《やまがら》の雛《ひな》が挾まれていて、把手《とって》を引く糸が切れておりました。ああ、あの糸はたしか、地下の棺中から引かれたに相違ございません。それに棺のも、地上の棺龕《カタファルコ》の蓋も、内部《なか》
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