ラクライマックス》が、はっきりと三人の感覚的限界を示していたからであった。そこで法水は、この北方《ゴート》式悲劇に次幕の緞帳《カーテン》を上げた。
「ところで田郷さん、昨夜の七時前後と云えば、ちょうど傭人達の食事時間に当っていたそうですし、また拱廊《そでろうか》で、兜《かぶと》が置き換えられた頃合にも符合するのですが、とにかくその前後に、大階段の両裾にあった二基の中世|甲冑《かっちゅう》武者が、階段を一足跳びに上ってしまい、『腑分図』の前方に立ち塞がっていたのです。しかし、たったその一事だけで、津多子夫人の死体が古代時計室の中に証明されるのですがね。サァ論より証拠、今度はあの鋼鉄扉を開いて頂きましょうか」
それから、古代時計室に行くまでの暗い廊下が、どんなに長いことだったか。恐らく、窓を激しく揺する風も雪も、彼等の耳には入らなかったであろう。熱病患者のような充血した眼をしていて、上体のみが徒《いたず》らに前へ出て、体躯《たいく》のあらゆる節度を失いきっている三人にとると、沈着をきわめた法水の歩行が、いかにももどかしかったに違いない。やがて最初の鉄柵扉が左右に押し開かれ、漆《うるし》で澄みわたった黒鏡のように輝いている鋼鉄扉の前に立つと、真斎は身体を跼《かが》めて、取り出した鍵で、右扉の把手《ハンドル》の下にある鉄製の函《はこ》を明け、その中の文字盤を廻しはじめた。右に左に、そうしてまた右に捻《ひね》ると、微かに閂止《かんぬきどめ》の外れる音がした。法水は文字盤の細刻を覗き込んで、
「なるほど、これはヴィクトリア朝に流行《はや》った羅針儀式《マリナース・コムパス》([#ここから割り注]文字盤の周囲は英蘭土(イングランド)近衛竜騎兵聯隊の四王標である。ヘンリー五世、ヘンリー六世、ヘンリー八世 女王エリザベスの袖章で細彫りがされ把手には the Right Hon'ble. JOHN Lord CHURCHIL の胸像が彫られてある[#ここで割り注終わり])ですね」と云ったけれども、それがどことはなしに、失望したような空洞《うつろ》な響を伝えるのだった。鍵の性能に対してほとんど信憑《しんぴょう》をおいていない法水にとると、恐らくこの二重に鎖された鉄壁が、彼の心中に蟠《わだかま》っている、ある一つの観念を顛覆したに違いないのだった。
「サア、名称は存じませんが、合わせ文字を閉めた方向と逆に辿《たど》ってゆくと、三回の操作で扉《ドア》が開く仕掛になっております。つまり、閉める時の最終の文字が、開く時の最初の文字に当るわけですが、しかし、この文字盤の操作法と鉄函《てつばこ》の鍵とは、算哲様の歿後、儂《わし》以外には知る者がないのです」
次の瞬間、唾《つば》を嚥《の》む隙さえ与えられなかった一同が、息詰るような緊張を覚えたと云うのは、法水が両側の把手《とって》を握って、重い鉄扉を観音開きに開きはじめたからだった。内部《なか》は漆黒《しっこく》の闇で、穴蔵のような湿った空気が、冷やりと触れてくる。ところが、どうしたことか、中途で法水は不意《いきなり》動作を中止して、戦慄《せんりつ》を覚えたように硬くなってしまった。が、その様子は、どうやら耳を凝《こ》らしているように思われた。刻々《チクタク》と刻む物懶《ものう》げな振子の音とともに、地底から轟《とどろ》いて来るような、異様な音響が流れ来たのであった。
二、Salamander soll gluhen(火精《ザラマンダー》よ燃え猛《たけ》れ)
しかし、法水は、いったん止めた動作を再び開始して、両側の扉を一杯に開ききると、なかには左右の壁際に、奇妙な形をした古代時計がズラリと配列されていた。外光が薄くなって、奥の闇と交わっている辺りには、幾つか文字面の硝子らしいものが、薄気味悪げな鱗《うろこ》の光のように見え、その仄《ほの》かな光に生動が刻まれていく。と云うのは、所々に動いている長い短冊振子が、絶えず脈動のような明滅を繰り返しているからであった。この墓窖《はかあな》のような陰々たる空気の中で、時代の埃を浴びた物静けさが、そして、様々な秒刻の音が、未だに破られないのは、恐らく誰一人として、つめきった呼吸《いき》を吐き出さないからであろう。が、その時、中央の大きな象嵌《ぞうがん》柱身の上に置かれた人形時計が、突然|弾条《ぜんまい》の弛《ゆる》む音を響かせたかと思うと、古風なミニュエットを奏ではじめたのであった。廻転琴《オルゴール》([#ここから割り注]反対の方向に動く二つの円筒を廻転せしめ、その上にある無数の棘をもって、梯状に並んでいる音鋼を弾く自動楽器[#ここで割り注終わり])が弾き出した優雅な音色が、この沈鬱な鬼気を破ったとみえて、再び一同の耳に、あの引き摺るように重たげな音響が
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