の反対の軸に凹面鏡を置き、そこに集った光線を、平面鏡の細孔から眼底に送ろうとするのですが、この場合は、天井のシャンデリアの光が凹面の弁に集って、それが前方の平面弁にある気泡を通ってから、向う側にある前立星に照射されたからでした。つまりそれが判ると、前立星の激しい反射光をうけねばならない位置を基礎にして、眼の高さが測定されるのでしょう」
「しかし、その反射光が何を?」
「ほかでもない、複視が起されるのですよ。催眠中でさえも眼球を横から押すと、視軸が混乱して複視を生ずるのですが、横から来る強烈な光線でも、同様の効果を生みます。つまりその結果、前方にある聖母《マリア》が十字架と重なるので、ちょうど聖母《マリア》が磔刑《はりつけ》になったような仮像が起る訳でしょう。云うまでもなく、その置き換えた人物と云うのは、婦人なのです。何故なら、そうして幻のように現われる聖母《マリア》磔刑の仮像は、第一、女性として最も悲惨な帰結を意味しています。また一面には、天来の瞰視《かんし》をうけているような意識に駆られて、審判とか刑罰とか云うような、妙に原人ぽい恐怖がもたらされてくるのですよ。だいたいそう云った宗教的感情などというしろものは、一種の本能的潜在物なんですからね。どんな偉大な知力をもってしても、容易に克服できるものではありません。直観的ではあるが、けっして思弁的ではないのです。もともと刑罰神一神説《ヤーヴィズム》は……公教精神《カトリシズム》は、聖《セント》アウグスチヌスが永劫《えいごう》刑罰説を唱えたとき、すでに超個人的な、抜くべからざる力に達していたのですからね。ですから、不慮であると否とにかかわらず、その大魔力はたちまちに精神の平衡を粉砕してしまいます。ことに、脆《もろ》い、変化をうけ易い、何か異常な企図を決行しようとする際のような心理状態では、その衝撃には恐らくひとたまりもないことでしょう。……つまり田郷さん、そういった動揺を防ぐために、その婦人は二つの兜《かぶと》を置き換えたのですよ。しかし、前立の星と並行する位置で、おおよその身長が測定されるのですが、五フィート四インチ――その高さを有する婦人は、いったい誰でしょうか。云うまでもなく、傭人どもなら大切な装飾品の形を変えるようなことはしないでしょうし、四人の外人は論なしとしても、伸子も久我鎮子も、それぞれに一、二インチほど低いのです。ところが田郷さん、その婦人は、まだこの館の中に潜んでいるのですよ。ああいったい、それは誰なんでしょうかね」と再三真斎の自供を促しても、相手は依然として無言である。法水の声に挑《いど》むような熱情がこもってきた。
「それから僕の脳裡で、その一つの心像が、しだいに大きな逆説《パラドックス》となって育っていったのですが、しかし、先刻《さっき》貴方の口から、ようやくその真相が吐かれました。そして、僕の算定が終ったのです」
「何と云われる。儂《わし》の口からとは?」真斎は驚き呆れるよりも、瞬間変転した相手の口吻《こうふん》に、嘲弄されたような憤りを現わした。「それが、貴方にあるたった一つの障害なのじゃ。歪んだ空想のために、常軌を逸しとるのです。儂《わし》は虚妄《うそ》の烽火《のろし》には驚かんて」
「ハハハハ、虚妄《うそ》の烽火《のろし》ですか」法水はとたんに爆笑を上げたが、静かな洗煉された調子で云った。
「いや、|打たれし牝鹿は泣きて行け《ホワイ・レット・ゼ・ストリクン・ディーア・ゴー・ウイープ》、|無情の牡鹿は戯るる《ゼ・ハート・アンギャラント・プレイ》――の方でしょうよ。しかし、先刻《さっき》貴方は、僕が『ゴンザーゴ殺し』の中の|汝真夜中の暗きに摘みし草の息液よ《ザウ・ミックスチュア・ランク・オヴ・ミッドナイト・ウイーズ・コレクテッド》――と云うと、その次句の|三たび魔女の呪詛に萎れ毒気に染みぬる《ウイズ・ヘキッツ・バン・スライス・プラステッド・スライス・インフェクテッド》――で答えましたっけね。その時どうして、|三たび《スライス》以後の韻律を失ってしまったのでしょう。また、どうした理由かそれを云い直した時に With《ウイズ》 Hecates《ヘキッツ》 を一節にして、Ban と thrice とを合わせ、しかもまた訝《いぶか》しいことには、その Banthrice《バンスライス》 を口にした時に、貴方はいきなり顔色を失ってしまったのです。勿論僕の目的は、文献学上の高等批判をしようとしたのではありません。この事件の発端とそっくりで、実に物々しく白痴嚇《こけおど》し的な、|三たび魔女の《ウイズ・ヘキッツ・バン》……以下を貴方の口から吐かせようとしたからです。つまり、詩語には、特に強烈な聯合作用が現われる――という、ブルードンの仮説《セオリー》を剽竊《ひょうせつ
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