ないのです」
「いやけっして」と法水は、諭すような和やかな声音《こわね》で、「だいたい日本の民法では、そういう点がすこぶる寛大なんですから」
「ところが駄目です」と旗太郎は蒼ざめた顔で、キッパリ云い切った。「何より、僕は父の眼が怖ろしくてならないのです。あのメフィストのような人物が、どうして後々にも、何かの形で陰険な制裁方法を残しとかずにはおくものですか。きっとグレーテさんが殺されたのだって、そういう点で、何か誤ちを冒したからに違いありません」
「では、酬いだと云われるのですか」と熊城は鋭く切り込んだ。
「そうです。ですから、僕が云えないという理由は、十分お解りになったでしょう。そればかりでなく、第一、財産がなければ、僕には生活というものがないのですからね」と平然と云い放って、旗太郎は立ち上った。そして、提琴奏者《ヴァイオリニスト》特有の細く光った指を、十本|卓子《テーブル》の端に並べて、最後に彼はひどく激越な調子で云った。
「もうこれで、お訊ねになる事はないと思いますが、僕の方でも、これ以上お答えすることは不可能なのです。しかし、この事だけは、はっきり御記憶になって下さい。よく館の者は、テレーズ人形のことを悪霊だと申すようですが、僕には、父がそうではないかと思われるのです。いいえ、確かに父は、この館の中にまだ生きているはずです」
旗太郎は、遺言書の内容にはきわめて浅く触れたのみで、再度鎮子に続いて、黒死館人特有の病的心理を強調するのだった。そうして陳述を終ると、淋しそうに会釈してから、戸口の方へ歩んで行った。ところが、彼の行手に当って、異様なものが待ち構えていたのである。と云うのは、扉の際まで[#「際まで」は底本では「際まる」]来ると、何故かその場で釘付けされたように立ち竦《すく》んでしまい、そこから先へは一歩も進めなくなってしまった。それは、単純な恐怖とも異なって、ひどく複雑な感情が動作の上に現われていた。左手を把手《ノッブ》にかけたままで、片腕をダラリと垂らし、両眼を不気味に据えて前方を凝視しているのだった。明らかに彼は、何事か扉の彼方に、忌怖《きふ》すべきことを意識しているらしい。がやがて、旗太郎は、顔面をビリリと怒張させて、醜い憎悪の相を現わした。そして、痙《ひっ》つれたような声を前方に投げた。
「ク、クリヴォフ夫人……貴女は」
そう云った途端に、扉《ドア》が外側から引かれた。そして、二人の召使《バトラー》が閾《しきい》の両側に立つと見る間に、その間から、オリガ・クリヴォフ夫人の半身が、傲岸《ごうがん》な威厳に充ちた態度で現われた。彼女は、貂《てん》で高い襟のついた剣術着《フェンシング・ケミセット》のような黄色い短衣《ジャケット》の上に、天鵞絨《びろうど》の袖無外套《クローク》を羽織っていて、右手に盲目のオリオンとオリヴァレス伯([#ここから割り注]一五八七―一六四五。西班牙(スペイン)フィリップ四世朝の宰相[#ここで割り注終わり])の定紋が冠彫《かしらぼり》にされている、豪奢な講典杖《キャノニスチック・ケーン》をついていた。その黒と黄との対照が、彼女の赤毛に強烈な色感を与えて、全身が、焔《ほのお》のような激情的なものに包まれているかの感じがするのだった。頭髪を無雑作に掻き上げて、耳朶《みみたぶ》が頭部と四十五度以上も離れていて、その上端が、まるで峻烈な性格そのもののように尖っている。やや生え際の抜け上った額は眉弓が高く、灰色の眼が異様な底光りを湛えていて、眼底の神経が露出したかと思われるような鋭い凝視だった。そして、顴骨《かんこつ》から下が断崖状をなしている所を見ると、その部分の表出が険しい圭角的なもののように思われ、また真直に垂下した鼻梁にも、それが鼻翼よりも長く垂れている所に、なんとなく画策的な秘密っぽい感じがするのだった。旗太郎は摺れ違いざまに、肩口から見返して、
「オリガさん、御安心下さい。何もかも、お聴きのとおりですから」
「ようく判りました」とクリヴォフ夫人は鷹揚《おうよう》に半眼で頷《うなず》き、気取った身振をして答えた。「ですけど旗太郎さん、仮りにもし私の方が先に呼ばれたのでしたら、その場合の事もお考え遊ばせな。きっと貴方だって、私どもと同様な行動に出られるにきまってますわ」
クリヴォフ夫人が私どもと複数を使ったのに、ちょっと異様な感じがしたけれども、その理由は瞬後に判明するに至った。扉際に立っていたのは彼女一人だけではなく、続いてガリバルダ・セレナ夫人、オットカール・レヴェズ氏が現われたからだった。セレナ夫人は、毛並の優れた聖《セント》バーナード犬《ドッグ》の鎖を握っていて、すべてが身長と云い容貌と云い、クリヴォフ夫人とは全く対蹠《たいせき》的な観をなしていた。暗緑色のスカートに縁紐《バンド
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