の上には、昨夜の集会だけに使ったものと見え、安手の絨毯《じゅうたん》が敷かれてあった。なお、庭に面した側には窓が一つしかなく、それ以外には、左隅の壁上に、換気筒の丸い孔が、ポツリと一つ空いているにすぎなかった。そして、周壁を一面に黒幕で張り繞《めぐ》らしてあるので、たださえ陰気な室がいっそう薄暗くなってしまって、そこには、とうてい動かし難い沈鬱な空気が漂っているのだった。涸《か》れ萎《しな》びた|栄光の手《ハンド・オヴ・グローリー》の一本一本の指の上に、死体|蝋燭《ろうそく》を差して、それが、懶気《ものうげ》な音を立てて点《とも》りはじめた時の――あの物凄い幻像が、未だに弱い微かな光線となって、この室のどこかに残っているかのように思われた。その室を一巡してから、法水は左隣りの空室《くうしつ》に行った。そこは、昨夜易介が神意審問会の最中に人影を見たと云う、張出縁のある室だった。その室は、広さも構造もほとんど前室と同じであったが、ただ窓が四つもあるので、室の中は比較的明るかった。床には粗目《あらめ》のズックようのものが敷いてあって、その上に不用な調度類が、白い埃を冠って堆《うず》高く積まれてあった。法水は扉の横手にある水道栓に眼を止めたが、それからは、昨夜のうちに誰か水を出したと見えて、蛇口から蚯蚓《みみず》のような氷柱《つらら》が三、四本垂れ下っている。云うまでもなく、それは昨夜ダンネベルグ夫人が失神すると、すぐに水を運んで来たとか云う――紙谷伸子の行動を裏書するものにすぎなかった。
「とにかく、問題はこの張出縁だ」と熊城は、右外れの窓際に立って憮然《ぶぜん》と呟いた。その窓の外側には、アカンサスの拳葉《けんよう》で亜剌比亜模様《アラベスク》が作られている、古風な鉄柵縁が張り出されてあった。そこからは、裏庭の花卉《かき》園や野菜園を隔てて、遠く表徴樹《トピアリー》の優雅な刈り籬《まがき》が見渡される。暗く濁って、塔櫓に押し冠さるほど低く垂れ下った空は、その裾に、わずか蝋色の残光を漂わせるのみで、籬の上方にはすでに闇が迫っていた。そして、時々合間を隔てて、ヒュウと風の軋《きし》る音が虚空ですると、鎧扉が佗《わび》しげに揺れて、雪片が一つ二つ棧の上で潰《ひし》げて行く。
「ところが、死霊《おばけ》は算哲ばかりじゃないさ」と検事が応じた。「もう一人ふえたはずだよ。だがディグスビイという男はたいしたものじゃない。たぶん彼奴《あいつ》は魑魅魍魎《ポルターガイスト》だろうぜ」
「どうして、やつは大魔霊《デモーネン・ガイスト》さ」と法水は意外な言《ことば》を吐いた。「あの弱音器記号には、中世迷信の形相|凄《すさま》じい力が籠《こも》っているのだよ」
 楽譜の知識のない二人には、法水が闡明《せんめい》するのを待つよりほかになかった。法水は一息深く煙を吸い込んで云った。
「勿論、Con《コン》 Sordino《ソルディノ》 では意味をなさないのだが、それには、一つだけ例外があるのだ。と云うのは、僕が先刻《さっき》鎮子を面喰《めんくら》わせた、『パルシファル』なんだよ。ワグネルはあの楽劇の中で、フレンチ・ホルンの弱音器記号に|+《よこじゅうじ》という符号を使っている。ところが、それは傍ら棺龕《カタファルコ》十字架の表象《シムボル》でもあり、また数論占星学では、三惑星の星座連結を表わしているのだ」と法水は、指で掌《てのひら》に描いたその記号の三隅に、ちょうど+となるような位置で、点を三つ打った。
「そうすると、いったいその棺龕《カタファルコ》と云うのは、どこにあるのだね?」検事が問い返すと、法水はちょっと凄惨な形相をして、耳を窓外へ傾《かし》げるような所作《しぐさ》をした。
「聞えないかい、あれが。風の絶え間になると、錘舌《クラッパー》が鐘に触れる音が、僕には聞えるのだがね」
「ああなるほど」そうは云ったものの、熊城は背筋に冷たいものを感じて、自分の理性の力を疑わざるを得なかった。葉摺れの噪音《ざわめき》に入り交って、微かに、軽く触れた三角錘《トライアングル》のような澄んだ音が聞えるのだけれども、その音はまさしく、七葉樹《とちのき》で囲まれていて、そこには何ものもないと思われていた、裏庭の遙か右端の方から響いて来るのだった。しかし、それは神経の病的作用でもなく、勿論妖しい瘴気《しょうき》の所業《しわざ》であり得よう道理はない。すでに法水は、墓※[#「穴かんむり/石」、165−12]《ぼこう》の所在を知っていたのである。
「先刻《さっき》窓越しに、太い椈《ぶな》の柱を二本見たので、それが棺駐門であるのを知ったのだよ。いずれ、ダンネベルグ夫人の柩《ひつぎ》がその下で停るとき、頭上の鐘が鳴らされるだろう。けれども、それ以前に僕は、他の意味であの墓※[#「穴
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