遺伝《メンタル・エンド・モラル・ヒディリティ・イン・ロヤリティ》」をも借用したい旨を述べて、図書室を出た。そして、鍵が手に入ったのを機《しお》に、続いて薬物室を調べることになった。
 次の薬物室は階上の裏庭側にあって、かつては算哲の実験室に当てられるはずだった、空室《くうしつ》を間に挾み、右手に、神意審問会が行われた室《へや》と続いていた。しかし、そこには薬室特有の浸透的な異臭が漂っているのみで、そこの床には、証明しようのないスリッパの跡が縦横に印され、それ以外には、袖摺れ一つ残されていなかった。したがって、彼等に残された仕事というのは、十にあまる薬品棚の列と薬|筐《ばこ》とを調べて、薬瓶《くすりびん》の動かされた跡と、内部の減量を見究めるにすぎなかった。けれども、一方五分あまりも積み重なっている埃の層が、かえって、その調査を容易に進行させてくれた。最初眼に止ったのは、壜栓《びんせん》の外れた青酸加里《シヤンニック・ポッタシウム》であった。
「うんよし、では、その次……」と法水は一々書き止めていったが、続けて挙げられた三つの薬名を聴くと、彼は異様に眼を瞬《またた》き、懐疑的な色を泛《うか》べた。何故なら、硫酸マグネシウムに沃度《ヨード》フォルムと抱水クロラールは[#「抱水クロラールは」は底本では「泡水クロラールは」]、それぞれに、きわめてありふれた普通薬ではないか。検事も怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げて、呟《つぶや》いた。
「下剤([#ここから割り注]瀉痢塩が精製硫酸マグネシウムなればなり[#ここで割り注終わり])、殺菌剤、睡眠薬だ。犯人は、この三つで何をしようとするんだろう?」
「いや、すぐに捨ててしまったはずだよ。ところが、嚥《の》まされたのは吾々《われわれ》なんだ」と法水はここでもまた、彼が好んで悲劇的準備《トラギッシェ・フォルベライツング》と呼ぶ奇言を弄《もてあそ》ぼうとする。
「なに僕等が」と、熊城は魂消《たまげ》て叫んだ。
「そうさ、匿名《とくめい》批評には、毒殺的効果があると云うじゃないか」法水はグイと下唇を噛み締めたが、実に意表外な観察を述べた。「で、最初に硫酸マグネシウムだが、勿論内服すれば、下剤に違いない。しかし、それをモルヒネに混ぜて直腸注射をすると、爽快な朦朧《もうろう》睡眠を起すのだ。また、次の沃度《ヨード》フォルムには、嗜眠性の中毒を起す場合がある。それから、抱水クロラールになると、他の薬物ではとうてい睡れないような異常亢進の場合でも、またたく間に昏睡させることが出来るのだよ。だから、新しい犠牲者に必要どころの話じゃない。全然、犯人の嘲笑癖が生んだ産物にすぎないのだ。つまり、この三つのものには、僕等の困憊《こんぱい》状態が諷刺されているのだよ」
 眼に見えない幽鬼は、この室《へや》にも這い込んでいて、例により黄色い舌を出し横手を指して、嗤《わら》っているのだった。しかし、調査はそのまま続けられたが、結局収穫は次の二つにすぎなかった。その一つは、密陀僧《みつだそう》([#ここから割り注]即ち酸化鉛[#ここで割り注終わり])の大壜に開栓した形跡があるのと、もう一つは、再度死者の秘密が現われた事だった。と云うのは、危く看過《みすご》そうとするところだったが、奥まった空瓶の横腹に、算哲博士の筆蹟で次の一文が認《したた》められている事だった。

[#天から1字下げ]ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり[#「ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり」は太字]――

 要するに、算哲が求めていたものと云うのは、何かの薬物であろう。しかし、それが何であるかということよりかも、法水の興味は、むしろこの際、なんらの意義もないと思われる空瓶の方に惹《ひ》かれていって、それに限りない神秘感を覚えるのだった。それは、荒涼たる時間の詩であろう。この内容《なかみ》のない硝子器が、絶えず何ものかを期待しながらも、空しく数十年を過してしまって、しかも未だもって充されようとはしないのだ。つまり、算哲とディグスビイとの間に、なんとなく相闘うようなものがあるかに感ぜられるのだった。また、酸化鉛のような製膏剤に働いていった犯人の意志も、この場合謎とするよりほかにないのだった。いずれにしても以上の二つからは、事件の隠顕両面に触れる重大な暗示をうけたのであったが、法水等三人は、それを将来に残して、薬物室を去らねばならなかった。
 続いて、昨夜神意審問会が行われた室《へや》を調べることになったが、そこは、この館には稀《めず》らしい無装飾の室《しつ》で、確かに最初は、算哲の実験室として設計されたものに相違なかった。広さの割合に窓が少なく、室《へや》の周囲は鉛の壁になっていて、床の混凝土《たたき》
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