に比例するからなんだが、まさにこの死体は、法医学に新しい例題を作ると思うね。だって、その点を考えたらどうしたって、易介がしだいに息苦しくなっていったと想像するよりほかにないじゃないか。たぶん、その間易介は凄惨な努力をして、なんとかして死の鎖を断とうとしたに違いないのだ。しかし、身体は鎧の重量のために活力を失っている。もはやどうすることも出来ない。そうして、空しく最後の瞬間が来るのを待つうちに、たぶん幼少期から現在までの記憶が、電光のように閃《ひらめ》いて、それが、次から次へと移り変っていったに違いないのだよ。ねえ熊城君、人生のうちでこれほど悲惨な時間があるだろうか。また、これほど深刻な苦痛を含んだ、残忍な殺人方法がまたと他にあるだろうか」
さすがの熊城も、その思わず眼を覆いたいような光景を想起して、ブルッと身慄《みぶる》いしたが、「しかし、易介は自分からこの中に入ったのだろうか。それとも犯人が……」
「いや、それが判れば殺害方法の解決もつくよ。第一、悲鳴をあげなかったことが疑問じゃないか」と法水がアッサリ云い退《の》けると、検事は兜の重量でペシャンコになっている死体の頭顱《あたま》を指差して、彼の説を持ち出した。
「僕はなんだか、兜の重量に何か関係があるような気がするんだ。無論、創《きず》と窒息の順序が顛倒してりゃ、問題はないがね……」
「そうなんだ」と法水は相手の説に頷《うなず》いたが、「一説には、頭蓋のサントリニ静脈は、外力をうけてからしばらく後に、血管が破裂すると云うからね。その時は、脳質が圧迫されるので、窒息に類した徴候が表われるそうだよ。しかし、これほど顕著なものじゃない。だいたいこの死体のは、そういった頓死的なものではないのだよ。じわじわと迫っていったのだ。だから、むしろ直接死因には、咽輪《のどわ》の方に意味がありそうじゃないか。無論気管を潰すというほどじゃないが、相当頸部の大血管は圧迫されている。すると、易介がなぜ悲鳴を上げなかったか――判るような気がするじゃないか」
「フム、と云うと」
「いや、結果は充血でなくて、反対に脳貧血を起すのだよ。おまけに、グリージンゲルという人は、それに癲癇《てんかん》様の痙攣《けいれん》を伴うとも云っているんだ」と法水はなにげなさそうに答えたけれども、なにやら逆説《パラドックス》に悩んでいるらしく、苦渋な暗い影が現われていた。熊城は結論を云った。
「とにかく、切創《せっそう》が死因に関係ないとすると、この犯行は、恐らく異常心理の産物だろう」
「いやどうして」と法水は強く頸《くび》を振って、「この事件の犯人ほど冷血な人間が、どうして打算以外に、自分の興味だけで動くもんか」
それから、指紋や血滴の調査を始めたが、それには、いっこう収穫はなかった。わけても甲冑の内部以外には、一滴のものすら発見されなかったのである。調査が終ると、検事は、法水が透視的な想像をした理由を訊ねた。
「君はどうして、易介がここで殺されているのが判ったのだね」
「無論|鐘鳴器《カリリヨン》の音でだよ」と法水は無雑作に答えた。「つまり、ミルの云う剰余推理さ。アダムスが海王星を発見したというのも、残余の現象は或る未知物の前件である――という、この原理以外にはないことなんだ。だって、易介みたいな化物が姿を消しても、発見されない。そこへ持ってきて、倍音以外にもう一つ、鐘鳴器《カリリヨン》の音に異常なものがあったからだよ。扉で遮断された現場の室《へや》とは異なって、廊下では、空間が建物の中に通じているのだからね」
「と云うのは……」
「その時残響が少なかったからだよ。だいたい鐘には、洋琴《ピアノ》みたいに振動を止める装置がないので、これほど残響のいちじるしいものはない。それに、鐘鳴器《カリリヨン》は一つ一つに音色《ねいろ》も音階も違うのだから、距離の近い点や同じ建物の中で聴いていると、後から後からと引き続いて起る音に干渉し合って、終いには、不愉快な噪音《そうおん》としか感ぜられなくなってしまうのだ。それを、シャールシュタインは色彩円の廻転に喩《たと》えて、初め赤と緑を同時にうけて、その中央に黄を感じたような感覚が起るが、終いには、一面に灰色のものしか見えなくなってしまう――と。まさに至言なんだよ。まして、この館には、所々円天井や曲面の壁や、また気柱を作っているような部分もあるので、僕は混沌としたものを想像していた。ところが、先刻《さっき》はあんな澄んだ音《ね》が聞えたのだ。外気の中へ散開すれば、当然残響が稀薄になるのだから、その音は明らかに、テラスと続いている仏蘭西《フランス》窓から入って来る。それを知って、僕は思わず愕然《がくっ》としたのだ。では何故《なぜ》かと云うと、どこかに、建物の中から広がってくる、噪音を遮断した
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