暗受しているような、陰鬱な影を漂わせていた。が、鎮子には、慇懃《いんぎん》な口調で云った。
「とにかく、種々《いろいろ》と材料をそろえて頂いたことは感謝しますが、しかし結論となると、はなはだ遺憾千万です。貴女の見事な類推論法でも、結局私には、いわゆる、如き観を呈するもの[#「如き観を呈するもの」に傍点]としか見られんのですからね。ですからたとい人形が眼前に現われて来たにしたところで、私は、それを幻覚としか見ないでしょう。第一そういう、非生物学的な、力の所在というのが判らないのです」
「それは段々とお判りになりますわ」と鎮子は最後の駄目を押すような語気で云った。「実は、算哲様の日課書の中に――それが自殺なされた前月昨年の三月十日の欄でしたが――そこにこういう記述があるのです。|吾[#「吾」は太字]《われ》、隠されねばならぬ隠密の力を求めてそれを得たれば、この日魔法書を[#「、隠されねばならぬ隠密の力を求めてそれを得たれば、この日魔法書を」は太字]|焚[#「焚」は太字]《た》けり[#「けり」は太字]――と。と申して、すでに無機物と化したあの方の遺骸には、一顧の価値《あたい》もございませんけれど、なんとなく私には、無機物を有機的に動かす、不思議な生体組織とでも云えるものが、この建物の中に隠されているような気がしてならないのです」
「それが、魔法書を焚いた理由ですよ」と法水は何事かを仄《ほの》めかしたが、「しかし、失われたものは再現するのみのことです。そうしてから改めて、貴女の数理哲学を伺うことにしましょう。それから、現在の財産関係と算哲博士が自殺した当時の状況ですが」とようやく黙示図の問題から離れて、次の質問に移ったが、その時鎮子は、法水を瞶《みつ》めたまま、腰を上げた。
「いいえ、それは執事の田郷さんの方が適任でございましょう。あの方はその際の発見者ですし、何より、この館ではリシュリュウ([#ここから割り注]ルイ十三世朝の僧正宰相[#ここで割り注終わり])と申してよろしいのですから」そうして、扉の方へ二、三歩歩んだ所で立ち止り、屹然《きっ》と法水を振り向いて云った。
「法水さん、与えられたものをとることにも、高尚な精神が必要ですわ。ですから、それを忘れた者には、後日必ず悔ゆる時機がまいりましょう」
 鎮子の姿が扉の向うに消えてしまうと、論争一過後の室《しつ》は、ちょうど放電後の、真空といった空虚な感じで、再び黴《かび》臭い沈黙が漂いはじめ、樹林で啼《な》く鴉《からす》の声や、氷柱《つらら》が落ちる微かな音までも、聴き取れるほどの静けさだった。やがて、検事は頸《くび》の根を叩きながら、
「久我鎮子は実象のみを追い、君は抽象の世界に溺れている。だがしかしだ。前者は自然の理法を否定せんとし、後者はそれを法則的に、経験科学の範疇《カテゴリー》で律しようとしている――。法水君、この結論には、いったいどういう論法が必要なんだね。僕は鬼神学《デモノロジイ》だろうと思うんだが……」
「ところが支倉君、それが僕の夢想の華《はな》さ――あの黙示図に続いていて、未だ誰一人として見たことのない半葉がある――それなんだよ」と夢見るような言葉を、法水はほとんど無感動のうちに云った。「その内容が恐らく算哲の焚書を始めとして、この事件のあらゆる疑問に通じているだろうと思うのだ」
「なに、易介が見たという人影にもか」検事は驚いて叫んだ。
 と熊城も真剣に頷《うなず》いて、「ウン、あの女はけっして、嘘は吐かんよ。ただし問題は、その真相をどの程度の真実で、易介が伝えたかにあるんだ。だが、なんという不思議な女だろう」と露《あら》わに驚嘆の色を泛《うか》べて、「自分から好んで犯人の領域に近づきたがっているんだ」
「いや、被作虐者《マゾヒイスト》かもしれんよ」と法水は半身《はんみ》になって、暢気《のんき》そうに廻転椅子をギシギシ鳴らせていたが、「だいたい、呵責《かしゃく》と云うものには、得も云われぬ魅力があるそうじゃないか。その証拠にはセヴィゴラのナッケという尼僧だが、その女は宗教裁判の苛酷な審問の後で、転宗よりも、還俗《げんぞく》を望んだというのだからね」と云ってクルリと向きを変え、再び正視の姿勢に戻って云った。
「勿論久我鎮子は博識無比さ。しかし、あれは索引《インデックス》みたいな女なんだ。記憶の凝《かたま》りが将棋盤の格みたいに、正確な配列をしているにすぎない。そうだ、まさに正確無類だよ。だから、独創も発展性も糞もない。第一、ああいう文学に感覚を持てない女に、どうして、非凡な犯罪を計画するような空想力が生れよう」
「いったい、文学がこの殺人事件とどんな関係があるかね?」と検事が聴き咎《とが》めた。
「それが、あの|水精よ蜿くれ《ウンディヌス・ジッヒ ヴィンデン》――さ
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