実体が仮象よりも華やかでないのは道理ですわ。しかし、そんなハム族の葬儀用記念物よりかも、もしその四角の光背と死者の船を、事実目撃した者があったとしたらどうなさいます?」
「それが貴女《あなた》なら、僕は支倉《はぜくら》に云って、起訴させましょう」と法水は動じなかった。
「いいえ、易介なんです」鎮子は静かに云い返した。「ダンネベルグ様が洋橙《オレンジ》を召し上る十五分ほど前でしたが、易介はその前後に十分ばかり室《へや》を空けました。それが、後で訊くとこうなんです。ちょうど神意審問の会が始まっている最中《さなか》だったそうですが、その時易介が裏玄関の石畳の上に立っていると、ふと二階の中央で彼の眼に映ったものがありました。それが、会が行われている室の右隣りの張出窓で、そこに誰やら居るらしい様子で、真黒な人影が薄気味悪く動いていたと云うのです。そして、その時地上に何やら落したらしい微かな音がしたそうですが、それが気になってたまらず、どうしても見に行かずにはいられなかったと申すのでした。ところが、易介が発見したものは、辺り一面に散在している硝子の破片にすぎなかったのです」
「では、易介がその場所へ達するまでの経路をお訊きでしたか」
「いいえ」と鎮子は頸《くび》を振って、「それに伸子さんは、ダンネベルグ様が卒倒なさるとすぐ、隣室から水を持ってまいったというほどですし、ほかにも誰一人として、座を動いた方はございませんでした。これだけ申せば、私がこの黙示図に莫迦《ばか》らしい執着を持っている理由がお判りでございましょう。勿論その人影というのは、吾々《われわれ》六人のうちにはないのです。と云って、傭人は犯人の圏内にはございません。ですから、この事件に何一つ残されていないと云うのも、しごく道理なんでございますわ」
鎮子の陳述は再び凄風を招き寄せた。法水はしばらく莨《たばこ》の赤い尖端を瞶《みつ》めていたが、やがて意地悪げな微笑を泛《うか》べて、
「なるほど、しかし、ニコル教授のような間違いだらけな先生でも、これだけは巧いことを云いましたな。結核患者の血液の中には、脳に譫妄《せんもう》を起すものを含めり――って」
「ああ、いつまでも貴方は……」といったん鎮子は呆《あき》れて叫んだが、すぐに毅然《きぜん》となって、「それでは、これを……。この紙片が硝子の上に落ちていたとしましたなら、易介の言《ことば》には形がございましょう」と云って、懐中《ふところ》から取り出したものがあった。それは、雨水《あまみず》と泥で汚れた用箋の切端《きれはし》だったが、それには黒インクで、次のような独逸《ドイツ》文が認《したた》められてあった。
[#天から3字下げ]Undinus《ウンディヌス》 sich《ジッヒ》 winden《ヴィンデン》
「これじゃとうてい筆蹟を窺《うかが》えようもない。まるで蟹《かに》みたいなゴソニック文字だ」といったん法水は失望したように呟《つぶや》いたが、その口の下から、両眼を輝かせて、「オヤ妙な転換があるぞ。元来この一句は、水精《ウンディネ》よ蜿《うね》くれ――なんですが、これには、女性の Undine《ウンディネ》 に us をつけて、男性に変えてあるのです。しかし、これが何から引いたものであるか、御存じですか。それから、この館《やかた》の蔵書の中に、グリムの『古代独逸詩歌傑作に就《つ》いて』かファイストの『独逸語史料集』でも」
「遺憾《いかん》ながら、それは存じません。言語学の方は、のちほどお報せすることにいたします」と鎮子は案外率直に答えて、その章句の解釈が法水の口から出るのを待った。しかし、彼は紙片に眼を伏せたままで、容易に口を開こうとはしなかった。その沈黙の間を狙って熊城が云った。
「とにかく、易介がその場所へ行ったについては、もっと重大な意味がありますよ。サァ何もかも包まずに話して下さい。あの男はすでに馬脚を露わしているんですから」
「サァ、それ以外の事実と云えば、たぶんこれでしょう」と鎮子は相変らず皮肉な調子で、「その間私が、この室に一人ぼっちだったというだけの事ですわ。しかし、どうせ疑われるのなら、最初にされた方が……いいえ、たいていの場合が、後で何でもないことになりますからね。それに伸子さんとダンネベルグ様が、神意審問会の始まる二時間ほど前に争論をなさいましたけれども、それやこれやの事柄は、事件の本質とは何の関係もないのです。第一、易介が姿を消したことだって、先刻《さっき》のロレンツ収縮の話と同じことですわ。その理学生に似た倒錯心理を、貴方の恫※[#「りっしんべん+曷」、第4水準2−12−59]《どうかつ》訊問が作り出したのです」
「そうなりますかね」と懶気《ものうげ》に呟いて、法水は顔を上げたが、どこか、ある出来事の可能性を
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