て作ったのですが、蜘蛛糸は本物の小道具なんですよ」
「すると、君は背景描きをやっているのかい」そう云って法水が端の一本を摘むと、それは、紙芯に銀紙を被せた柔かい紐だった。
その時窓外からボンと一つ、零時半を報らせる沈んだ音色が聴こえた。それは朔郎の室に適《ふさ》わしくない豪華な大時計で、昨年故国に去った美校教授ジューベ氏の遺品だった。然し正確な時刻は、格子窓の上にある時計の零時三十二分で、その時計には半を報ずる装置はなかったのである。
それから、朔郎の饒舌が胎龍夫妻の疎隔に触れて行って、散々夫人の柳江を罵倒してから、最後に頗る興味のある事実を述べた。
「そう云う風に、今年に入って以来の住持の生活は、全く見るも痛々しい位に淋しいものでした。それでこの三月頃には、時々失神した様になって持っていたものを取り落したり、暫く茫然としている事などもありましたし、その頃は妙な夢ばかり見ると云って、僕にこんなのを話した事がありましたっけ。――何んでも、自分の身体の中から侏儒の様な自分が脱け出して行って、慈昶君の面皰《にきび》を一々丹念に潰して行くのです。そして全部潰し終ると、顔の皮を剥いで大切そうに懐中に入れると云うのですがね。然し、その頃からこの寺に兆とでも云いたい雰囲気が濃くなって行きました。ですから、今度の事件も、その結果当然の自壊作用だと、僕は信じているのですよ。法水さん、その空気は、今にだんだんと分かって来ますがね」
二、一人二役、――胎龍かそれとも
朔郎を去らせてから引続きこの室で、柳江、納所僧の空闥と慈昶、寺男の久八――と以上の順で訊問する事になった。褪せた油単で覆うた本間の琴が立て掛けてある床間から、蛞蝓でも出そうな腐朽した木の匂いがする。それが、朔郎の言葉に妙な聯想を起すのだった。
「厨川朔郎と云う男には、犯人としても、また優れた俳優としての天分もある。けれども、疚しい所のない人間と云うものは、鳥渡した悪戯気から、つい芝居をしたくなるものだがね。それに……」
「いや、あの男はもっと他に知っている事があるんだぜ」検事はそう云って法水《のりみず》の言葉を遮ったが、法水は無雑作に頷いたのみで、
「ねえ熊城君」と鏨《たがね》を示して、「これは兇器の一部かも知れないが、全部じゃない事だけは明らかだよ。と云って、兇器がどんなものだか、僕には全然見当が附かないのだが」
それから、彼は窓の障子をあけて、土蜘蛛の押絵をあちこちから眺めすかしていたが、突然《いきなり》背伸びをして、右眼の膜を剥ぎ取った。
「ホホウ、恐ろしく贅沢なものだな。雲母《マイカ》が使ってある。所が、左眼にはこれがないのだ。どうだね、光ってないだろう」法水がそう云った時に、静かに板戸の開かれる音がした――それが胎龍の妻柳江だった。
柳江は過去に名声を持つ女流歌人で、先夫の梵語学者鍬辺来吉氏の歿後に、胎龍と再婚したのだった。恰好《かたち》のいい針魚《さより》のような肢体――それを包んだ黒ずくめの中から、白い顔と半襟の水色とがクッキリと浮出ていて、それが、四十女の情熱と反面の冷たい理智を感じさせる。会話は中性的で、被害者の家族特有の同情を強いるような態度がない。寧ろ憎々しい迄に冷静を極めている。法水は丁重に弔意を述べた後で、まず昨夜の行動を訊ねた。
「ハァ、午後からずうっと茶の間に居りましたが、多分七時半頃で御座いましたでしょう。主人が雪駄を突掛けて出て行った様子で御座いましたが、程なく戻って来て、薬師堂で祈祷すると云い、慈昶を連れて出掛けましたのです」
「では、あの雪駄が※[#感嘆符疑問符、1−8−78] すると、一端戻って来てから履いたのが日和なんですね」熊城は吃驚《びっくり》して叫んだ。てっきり犯人の足跡と呑み込んで、深く訊しもしなかった雪駄の跡が住持のものだとすると、一体犯人は、如何なる方法に依って足跡を消したのだろうか? それとも、接近せずに目的を果し得る兇器があったのだろうか? 然し、法水は更に動じた気色を見せなかった。
「ハハハハ熊城君、多分この矛盾は、間もなく判る筈だよ。それから奥さん、その時御主人の様子に、何か平生と変った点があったのをお気付きになりませんでしたか?」
「ハァ、別に最近の主人と変ったような所は御座いませんでしたが、どうした訳か、空闥さんの日和を履いてしまったので御座います。それから十五分程経って、慈昶が戻ったらしい咳払いを聴きましたけれども、空闥さんはその時、本堂脇の室で檀家の者と葬儀の相談をしていた様子で御座いました。主人は二、三日来咽喉を痛めて居りますので、黙祷と見えて読経の声も聴こえず、夕食にも戻りませんでした。ですから、毎夜の例で十時頃に、私が池の方へ散歩に参りました途中、薬師堂の中で見掛けましたのが、最後の姿だったの
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