ヘ居りません」
「ああ、なんだ、チャンドさんか」
しかし私は、爽やかな、処女を粧《いろど》るさまざまな香りに、こう隣ったことを、たいへん有難く思いました。
とやがて、
「チャンドさん」
と羞《はじ》らったような声で、
「ちょっと、あんたにお願いがあるんだけど、……実はパドミーニがいないんで、お願いするんだけど……、そこにある、三角海綿《ルーファ》をここへ持ってきてくれない?」
とたんに、私は、ぱちぱちっと瞬きました。ゆらゆら、鍵穴を洩れる湯気が、肢体のように妖《あや》しく見えます。
「でも……」と、やっと返辞はしたが、子供のような答えです。すると、ヘミングウェー嬢は、
「アラ、厭なの。じゃ、何かそこでしていんじゃない? 抽斗《ひきだし》や、下着入れを覗いているんだったら、今のうちに蔵《しま》うことよ……」
やがて私は、パドミーニが出しわすれていた三角スポンジを手に、把手《ノッブ》をやんわりとひねっていました。が、実のところは、動作に現われているような、そんな落着きはないのです。
(なにを……ミス・ヘミングウェーのこれは、意味するのだろう。処女が、娘の媚態ともいう羞恥心を捨ててまで、自分に、浴室に入れとは、戯れだけと云えないことだ。)
と、妙な自負心に、私はからだ中浮いてしまったように……ああ、|Mr. O'Grie《ミスター・オーグリー》[#「Mr. O'Grie」は底本では「Mr. O,Grie」]、嗤《わら》いますね。が、それも、あなたはミス・ヘミングウェーを知らないからです。
つぶらな瞳《ひとみ》、弾力のあるふっくらとした頬《ほほ》、顔もからだも、ほどよく締っていて、弾《はず》みだしそうです。
神品ですよ。触れようとしても出来ぬものはことごとく神品です。
私は……だが、いかなる場合でも、ブリスコーの生徒でした。
「じゃ、ここへ置きますから」
「そう。有難う。でも、ちょっとの間《ま》なら、ここにいてもいいわ」
私の、そのときの驚きは何ものに例えようもありません。しかし、ミス・ヘミングウェーは、続けさまに云うのです。
「どう私、頭のほうもそう悪かァないでしょう。湯気で、あんたの眼鏡が曇って、なにも見えないのを知ってるんだから。見えて? ……私が、いま、どんなことをしているか」
と、はげしい湯の音がして飛沫《しぶき》がかかると、淡紅色《ときいろ》の、暈《ぼ》やっとした塊りが、眼前の靄《もや》のなかにあらわれました。
揺れる、くねる。
私は、咽喉《のど》がからからになって自分の喘《あえ》ぎが、ガンガン鳴る耳のなかへ響いてきます。
「では御ゆるり」
私は、やっと咽喉をうるおし、これだけを云いました。すると、ヘミングウェー嬢は、
「マア、あんた、あんたは割と世帯染みてんのね」
そう云って、くすんとお笑いになったようです。が、その頃から、鏡玉《レンズ》が室《へや》の温度に馴れ、やっと靄が霽《は》れはじめてきました。と、灌水《シャワー》のひらいた、夕立のような音がする。
それも、湯のほうが捻《ひね》られて、もうもうと立ち罩《こ》めてくる。せっかくの、喘ぐような瞬間がまた旧《もと》へ戻ってしまったのです。
「お気の毒さまね」
ミス・ヘミングウェーが、嘲るように云いました。
「なにがです」
「知っているくせに。……もっと黒檀紳士は、明けっ放しの人かと思っていたわ。つまり、四十|碼《ヤード》スクラムからスリークォーター・パスになって、それを、私がカットして好|蹴《キック》をタッチに蹴出す。一挙これじゃ、三十|碼《ヤード》挽回ね」
「分りませんね。何です、それは」
「分らないの、マアいいわ。いいから、出てないと水を引っかけるわよ」
私はさんざんに翻弄され、それでも、若葉を嗅ぐような、爽《さや》けい匂いをつけて戻ってきました。
それから、部屋へ戻って寝台にころがっているうちに私は、四肢五体を揉みほごされるように狂わしくなってきたのです。
(なんのためだ……なんのために僕を浴室なんかへ呼んだのだ?)
それは、あるいはミス・ヘミングウェーの気紛れかもしれないが、いちがいにそう云い切ってしまうには、あまりに、奔騰的だ、噴油だ。鬱積しているものが悶《もだ》え出ようとしているのか。
(ふむ、よくあることだ。よく、青葉病といって、急に憂鬱になるか、それとも、見境いなく齧《かじ》りつくような、亢進症《ニムフォマニー》になるか――。とにかくあれは、殻を割りたくても、割り得ない悩みなんだ。あの娘は、心のなかじゃ充分熟れ切っている。そこへ、破ろうとしても、させないような潔癖さがあるのだ。そうだ、たしかに処女性の病的なものがある。)
と、決めてしまうのも、独り合点でしょうか。分りません※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ミス・ヘミングウェーと、私とのあいだには人種の壁がある。そしてこれも、一夜のほんの戯れだけでしょうか。
私は、そうして右せんか左せんかと悩み、奇怪な謎を投げかけたヘミングウェー嬢の行為を思いあぐみ惑乱に悶えておりました。
ああ、O'Grie《オーグリー》、あなたは、それからの私をお嗤《わら》いになるでしょう。暇さえあれば、留守を狙ってヘミングウェー嬢の部屋へ忍び込み、部屋に残っている薫香《かおり》に鼻をうごめかしたものです。O'Grie All is glowing, burning, trembling.
馬鹿です。しかし天はこの馬鹿に恵み給うたのか、翌日も雨、その次も雨、しかも暴動の気配が絶えず、ときどき銃声がする。風もない、ただ雨が滝のように地を打っている。
ところで、その日からはじまる八日のあいだが、カリーの女神を祭る精進日となるのです。
水浴をし、あらゆる慾望を絶ち、子羊を犠牲にする。そしてもって、破壊の女神カリーをお慰め申しあげるのです。けれど、いまここでは祭典どころではない。雨に暴動、加えて湯気のようなおそろしい湿気です。
しかしそうした時、ごろごろ懶《だる》いままに転がっている姿は、だんだん心も獣のようなそれと同じになるのではないでしょうか。
私も、自分ながら、理性を失わんとしているのが分ります。やがて、暗い空がいっそう暗くなり、雨脚も消え、煮られるような夜となりました。
ところが、その夜ヘミングウェー嬢に、神経痛の発作が起りました。前年、ポロの競技中落馬が原因で、その後は、暑さ寒さにつれ、右肩が痛むのです。それでパドミーニと交代に、患部の湿布をかえておりました。甲斐甲斐しく、腕まくりしてギュッとタオルを絞る、すべてが、われながら驚くほどマメ[#「マメ」に傍点]だったのです。とその時、通りをザッザッっと、靴音でない一群が通ってゆく。
「アッ、あれ、きっと何だわ」
「なるほど」
「あらッ、私まだなんにも云ってないのに……」
私は、ときどき失敗をやってはぎゅうぎゅうな目に逢わされ、それが久しく外道《げどう》的な快楽となっているのです。いま私は、右手でタオルを抑えながら、左手は、ミス・ヘミングウェーの莨《たばこ》に灰受けを捧げている。
ああ、いかに場合とはいえブリスコーの生徒が、落ちたにも百面相とはなったものです。
「ああ、そうか」
私は、ポンと手を打つかわりに灰皿を上げて、静かに莨灰《はい》を落させる。
「分りましたよ、非常時の馬鹿力というのが、あれほど、お痛みだったのが土民がとおると、瞬間ケロリと忘れてしまう……。いや、気が張っとりますと、感じないのですなア」
「そうかしら」
「処世上、その点には、つどつど考えさせられます」
「じゃ、処生哲学ね」
ミス・ヘミングウェーがクスンと笑いながら、
「あたし、まえにはチャンドさんを、ちがう人かと思ってたわ。口説《くど》き上手で、パドミーニのような娘を悦《よろこ》ばせるかわりに、かならずただじゃ済ませない。よく、世間にあるあの類型ね?」
「…………」
「ところが」
と、云いながら、ヘミングウェー嬢は痛そうに顔をしかめはじめたのです。けれど、まだそれは忍べぬというほどのものではないらしい。
「ただ、あんたは実にまめ[#「まめ」に傍点]だと思う」
「まめ[#「まめ」に傍点]ですか。僕は」
「そう、ほかにも良いところが、きっとあるんだろうと思うわ。だけど、なにしろまめ[#「まめ」に傍点]すぎるんでほかが分らなくなるの」
彼女一流の毒舌が、このときはまったく苦痛のなかから発せられました。
「パドミーニ、パドミーニを呼んで」
腰の痛みだけは、私にもさすが触らせない……しかしパドミーニは、いつになってもこの室《へや》へ戻ってこない。
(パドミーニがいない。)
それをさっきから、私はミス・ヘミングウェーに、思い出させまいとしていたのだ。彼女はいまコック部屋にいる。回教徒だから、カリーさまのこの日にも、なんのお咎めもあるまい。
そしてその間、私が万事取り仕切ってまめまめしく働き、ほとんど、触らんばかりの身近にいる愉悦を、パドミーニがきて妨げられまいとしていたのだ。私は、心のなかで、チェッと舌打ちをしました。ところへ、
「呼んで……、ねえ、早く」
とヘミングウェー嬢が、胸をそらし、苦しそうに呻きはじめました。
「はやく、チャンドさん、引っ張って来てよう」
「ですが」
さすがに私も狼狽《うろた》え気味になって、
「考えてみますと……あれから、もう四、五時間も見えないのですから」
「そう、そう云えば……」
と、痛みを忘れたように、不安気に眼を据え、
「あれ、何時《いつ》だったろう。パドミーニは、食堂から出て、たしか……」
と、だんだん、ミス・ヘミングウェーの顔は羞らったようになり、観念の色がなに事かを決めようとしました。
とその時、通りのどこかでワアッと喚声があがると、数発の、銃声とともにおそろしい音が部屋に起りました。窓|硝子《ガラス》が木葉《こっぱ》微塵となり、どこか、蒲団《マット》のしたからキナ臭い匂いが立ちのぼってきます。
その瞬間、せっかくの機会《チャンス》がぶち壊れてしまったばかりか、ミス・ヘミングウェーは、恐怖に駆られワアッと泣きながら、地下室の酒倉へ逃げ込んでしまったのです。
つまりこれは、カリーの女神の嘉《よみ》し給わなかったことでしょうか。それからも、ミス・ヘミングウェーは相変らずの態度で、おお機会《チャンス》と、叫ばせられたのも何度かありました。が、私には、印度教徒の戒律を思わぬわけには、ゆきません。最初の夜の、神意的破壊的の銃声が、もし啓示としたならばこの次はどうでしょう。
ああ、O'Grie《オーグリー》、煩悩《ぼんのう》はたけり、信仰は脅かす。精進潔斎《しょうじんけっさい》のその日に、女人《にょにん》を得ようとしたのは、返す返すも悲しいめぐり合わせでした。
私はそれから、来る日来る日うつらと送りましたが、しかし、希望はまだ九日目にあります。精進明けの、その日には何事も自由です。そして雨も、その前々夜にはからっと上がり、町にはすでに火薬の匂いもありません。朝の風が、黍《きび》畑をひたす出水のうえを渡り、湿原で鳴く、印度|犀《さい》の声を手近のように送ってきます。ヘミングウェー嬢は、この朝|高台公園《ハイ・パーク》の遊歩場へゆき、八時頃には、木蔭を縫う馬蹄の響が聴えてきました。
そこで私は、とって降した彼女の手をかるく握りますと、どうでしょう、そのうえにピシリと鞭が降りました。
ああ、私はとたんに自己を失い……思わぬ変り方、あまりな恥辱にそのまま面《おもて》を伏せ、ホテルには入らず一目散に駈け出しました。
それからの放浪です。
私はつくづく、祭、祭に縛られる印度《インド》民族が厭になり、と云って、遠い祖先の収穫をいのる声がふり※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《もぎ》ろうとしてもどうしても離れないのです。おお、O'Grie《オーグリー》、なに事にも印度民族はこのディレンマに困《くる》しめられます。信教と、民族発展とに背反するものを持つ……。
おお、O'Grie《オーグリー》
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング