一週一夜物語
小栗虫太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)天邪鬼《あまのじゃく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一、|大人 O'Grie《サヒーブ・オーグリー》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/工)」、265−2]
−−

    一、|大人 O'Grie《サヒーブ・オーグリー》

 僕は、「実話」というのが大の嫌いだから、ここには本当のことを書く。
 というものの、どうもこれが難題なので、弱る。作らず、嘘でなく、じっさい僕が聴いた他人の告白なんて――よくよく天邪鬼《あまのじゃく》でないかぎり、いえた芸ではないと思う。
 とにかく、これはいわゆる実話ではない。あくまで、僕が経験し、じっさいに聴いた話である。
 で、冒頭に、僕の経歴の一部を明らかにする。これまで、経歴不明の神秘性がある――とかなんとか云われるのは心外であったが、この機に残らずぶちまけてサバサバとしてしまいたい。
 それは、中学を出て一年遊び、翌大正八年五月から十一年二月まで、横浜山下町一五二番地、メーナード・エス・ジェソップ商会というのに勤めていた。この店は、ブロンズ扉《ドア》や、ボード・ジョインターや特殊錠、欄間《らんま》調整器などの建築金具を輸入し、輸出のほうは、印度、蘭印方面へ日本雑貨を向けていた。もちろん僕は雑貨掛りのほうであった。
 ところが、大正十年十一月九日、年に一度は、顧客《とくい》廻りに出かけるジェソップ氏の伴をして、はじめて北回帰線を越えカルカッタに上陸した。
 印度《インド》だ。
 頭被《ターバン》、綿布、Maharajah《マハラジァ》 の国だ。僕は、象に乗り|蛇使い《スネークチャーマー》を見、Lingam《リンガム》 の、散在する印度教寺院を見歩いた。しかし、そのバトナやカルカッタにはなんの物語もない。それから、汽車で南行、中部印度のプーリという町にきてはじめてこの話が起る。
 そこの宿は、ホテル「|風の宮《ウインド・パレス》」という洒落《しゃれ》た名であったが、部屋は、Apadravya《アパドラヴィヤ》 という裏町に向いて汚い。
 露台が、重なり合っている狭くるしい通りは、また、更紗《さらさ》や麻布の日覆いでしたの土が見えない。しかし、夜は美しい。更紗を洩れる灯、昼間は気付かなかった露台の影絵《シルエット》、パタンやブルマンの|喧囂たる取引《エロクエント・コムマース》は、さながら、往時バグダッドの繁栄そのものである。
 平太鼓《タム・タム》が聴える……。それを子守唄に、寝ればまた「一千一夜物語《アラビアン・ナイト》」を夢みる。バクストの装置《デザイン》、カルサヴィナが踊るシェヘラザーデの陽炎《かげろう》。まるでそれは、僕が Haroun《ハルーン》 al《アル》 Raschid《ラシッド》 で、ここへ彷徨《さまよ》い着いたようであった。
 ところが、そうして滞在三日目の夕のことである。
 窓からみると、砂堤の蔭に首絞め台のようなものが見える。それが、最初の日から気になっていたので、ジェソップ氏を誘い散歩がてら出かけていった。が、側へゆくと、それは Masula《マスラ》 という名の、車井戸だったのだ(この Masula《マスラ》 というのは、あるいはこの地方の小舟の名であったかもしれぬ。いずれにせよ、いまは時経て記憶に定かでなし)。
 水牛が、釣瓶縄《つるべなわ》を引くと、絞め殺されるような音を立てる。陽は落ちんとして、マハナディ三角洲《デルタ》はくらい靄《もや》のしたにあった。
 するとそれから、騾《ら》をつないであるアカシヤのしたまで来ると、とたんに、そばの草叢《くさむら》がガサガサっと動いた。
(眼鏡蛇《コブラ》かな?)
 それは、慄《ぞ》っとするのと飛び退くのと、同時だった。しかしジェソップ氏は、からだをかがめ顔を地にすれすれにして、とおく残光が、黄麻畑の果にただようあたりに透《すか》した。
 間もなく彼は、手の泥を払いながら顫《ふる》える私をながめ、
「ありゃ、君、人間の手だよ」
と、嗤《わら》うのだった。
 そこで、|Mr. O'Grie《ミスター・オーグリー》 が安堵したことは云うまでもない。
 しかしジェソップ氏は、顎を撫でながらじっと考え込んでいる。僕は、その腹芸を怪訝《けげん》に思い、とにかく、騾を引いてきてお乗んなさいとばかりにすると、
「君、ちょっとあの男を呼んで来てくれんかね」
 と云うのだ。
「でも……何でです?」
 私は、なにがなんでも得体が分らないので、躊躇するとジェソップ氏は手をあげ、
「いや君は分らんだろ
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング