ニ手を打つかわりに灰皿を上げて、静かに莨灰《はい》を落させる。
「分りましたよ、非常時の馬鹿力というのが、あれほど、お痛みだったのが土民がとおると、瞬間ケロリと忘れてしまう……。いや、気が張っとりますと、感じないのですなア」
「そうかしら」
「処世上、その点には、つどつど考えさせられます」
「じゃ、処生哲学ね」
ミス・ヘミングウェーがクスンと笑いながら、
「あたし、まえにはチャンドさんを、ちがう人かと思ってたわ。口説《くど》き上手で、パドミーニのような娘を悦《よろこ》ばせるかわりに、かならずただじゃ済ませない。よく、世間にあるあの類型ね?」
「…………」
「ところが」
と、云いながら、ヘミングウェー嬢は痛そうに顔をしかめはじめたのです。けれど、まだそれは忍べぬというほどのものではないらしい。
「ただ、あんたは実にまめ[#「まめ」に傍点]だと思う」
「まめ[#「まめ」に傍点]ですか。僕は」
「そう、ほかにも良いところが、きっとあるんだろうと思うわ。だけど、なにしろまめ[#「まめ」に傍点]すぎるんでほかが分らなくなるの」
彼女一流の毒舌が、このときはまったく苦痛のなかから発せられました。
「パドミーニ、パドミーニを呼んで」
腰の痛みだけは、私にもさすが触らせない……しかしパドミーニは、いつになってもこの室《へや》へ戻ってこない。
(パドミーニがいない。)
それをさっきから、私はミス・ヘミングウェーに、思い出させまいとしていたのだ。彼女はいまコック部屋にいる。回教徒だから、カリーさまのこの日にも、なんのお咎めもあるまい。
そしてその間、私が万事取り仕切ってまめまめしく働き、ほとんど、触らんばかりの身近にいる愉悦を、パドミーニがきて妨げられまいとしていたのだ。私は、心のなかで、チェッと舌打ちをしました。ところへ、
「呼んで……、ねえ、早く」
とヘミングウェー嬢が、胸をそらし、苦しそうに呻きはじめました。
「はやく、チャンドさん、引っ張って来てよう」
「ですが」
さすがに私も狼狽《うろた》え気味になって、
「考えてみますと……あれから、もう四、五時間も見えないのですから」
「そう、そう云えば……」
と、痛みを忘れたように、不安気に眼を据え、
「あれ、何時《いつ》だったろう。パドミーニは、食堂から出て、たしか……」
と、だんだん、ミス・ヘミングウェーの顔は羞らったようになり、観念の色がなに事かを決めようとしました。
とその時、通りのどこかでワアッと喚声があがると、数発の、銃声とともにおそろしい音が部屋に起りました。窓|硝子《ガラス》が木葉《こっぱ》微塵となり、どこか、蒲団《マット》のしたからキナ臭い匂いが立ちのぼってきます。
その瞬間、せっかくの機会《チャンス》がぶち壊れてしまったばかりか、ミス・ヘミングウェーは、恐怖に駆られワアッと泣きながら、地下室の酒倉へ逃げ込んでしまったのです。
つまりこれは、カリーの女神の嘉《よみ》し給わなかったことでしょうか。それからも、ミス・ヘミングウェーは相変らずの態度で、おお機会《チャンス》と、叫ばせられたのも何度かありました。が、私には、印度教徒の戒律を思わぬわけには、ゆきません。最初の夜の、神意的破壊的の銃声が、もし啓示としたならばこの次はどうでしょう。
ああ、O'Grie《オーグリー》、煩悩《ぼんのう》はたけり、信仰は脅かす。精進潔斎《しょうじんけっさい》のその日に、女人《にょにん》を得ようとしたのは、返す返すも悲しいめぐり合わせでした。
私はそれから、来る日来る日うつらと送りましたが、しかし、希望はまだ九日目にあります。精進明けの、その日には何事も自由です。そして雨も、その前々夜にはからっと上がり、町にはすでに火薬の匂いもありません。朝の風が、黍《きび》畑をひたす出水のうえを渡り、湿原で鳴く、印度|犀《さい》の声を手近のように送ってきます。ヘミングウェー嬢は、この朝|高台公園《ハイ・パーク》の遊歩場へゆき、八時頃には、木蔭を縫う馬蹄の響が聴えてきました。
そこで私は、とって降した彼女の手をかるく握りますと、どうでしょう、そのうえにピシリと鞭が降りました。
ああ、私はとたんに自己を失い……思わぬ変り方、あまりな恥辱にそのまま面《おもて》を伏せ、ホテルには入らず一目散に駈け出しました。
それからの放浪です。
私はつくづく、祭、祭に縛られる印度《インド》民族が厭になり、と云って、遠い祖先の収穫をいのる声がふり※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《もぎ》ろうとしてもどうしても離れないのです。おお、O'Grie《オーグリー》、なに事にも印度民族はこのディレンマに困《くる》しめられます。信教と、民族発展とに背反するものを持つ……。
おお、O'Grie《オーグリー》
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