ニ手を打つかわりに灰皿を上げて、静かに莨灰《はい》を落させる。
「分りましたよ、非常時の馬鹿力というのが、あれほど、お痛みだったのが土民がとおると、瞬間ケロリと忘れてしまう……。いや、気が張っとりますと、感じないのですなア」
「そうかしら」
「処世上、その点には、つどつど考えさせられます」
「じゃ、処生哲学ね」
ミス・ヘミングウェーがクスンと笑いながら、
「あたし、まえにはチャンドさんを、ちがう人かと思ってたわ。口説《くど》き上手で、パドミーニのような娘を悦《よろこ》ばせるかわりに、かならずただじゃ済ませない。よく、世間にあるあの類型ね?」
「…………」
「ところが」
と、云いながら、ヘミングウェー嬢は痛そうに顔をしかめはじめたのです。けれど、まだそれは忍べぬというほどのものではないらしい。
「ただ、あんたは実にまめ[#「まめ」に傍点]だと思う」
「まめ[#「まめ」に傍点]ですか。僕は」
「そう、ほかにも良いところが、きっとあるんだろうと思うわ。だけど、なにしろまめ[#「まめ」に傍点]すぎるんでほかが分らなくなるの」
彼女一流の毒舌が、このときはまったく苦痛のなかから発せられました。
「パドミーニ、パドミーニを呼んで」
腰の痛みだけは、私にもさすが触らせない……しかしパドミーニは、いつになってもこの室《へや》へ戻ってこない。
(パドミーニがいない。)
それをさっきから、私はミス・ヘミングウェーに、思い出させまいとしていたのだ。彼女はいまコック部屋にいる。回教徒だから、カリーさまのこの日にも、なんのお咎めもあるまい。
そしてその間、私が万事取り仕切ってまめまめしく働き、ほとんど、触らんばかりの身近にいる愉悦を、パドミーニがきて妨げられまいとしていたのだ。私は、心のなかで、チェッと舌打ちをしました。ところへ、
「呼んで……、ねえ、早く」
とヘミングウェー嬢が、胸をそらし、苦しそうに呻きはじめました。
「はやく、チャンドさん、引っ張って来てよう」
「ですが」
さすがに私も狼狽《うろた》え気味になって、
「考えてみますと……あれから、もう四、五時間も見えないのですから」
「そう、そう云えば……」
と、痛みを忘れたように、不安気に眼を据え、
「あれ、何時《いつ》だったろう。パドミーニは、食堂から出て、たしか……」
と、だんだん、ミス・ヘミングウェーの顔は羞
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