声音《こわね》までも変ってしまって、その豊かな胸声は、さながら低音の金属楽器《ブラス》を、聴く思いがするのだった。然し、その後の生活と云えば、どうして不幸どころではなかったのである。
二十年前|情《すげ》なく振り捨てた、先妻の衣川暁子も、その劇団と共に迎えてくれたのだし、当時は襁褓《むつき》の中にいた一人娘も、今日此の頃では久米幡江《くめはたえ》と名乗り、鏘々《そうそう》たる新劇界の花形となっていた。そうして、僅かな間に、鬱然たる勢力を築き上げた九十郎は、秘かに沙翁舞台を、実現せんものと機会を狙っていた。
所へ、向運の潮《うしお》に乗って、九十郎を訪れて来たものがあり、それが外ならぬ、沙翁記念劇場の建設だった。最初その計画は、九十郎の後援者である、一、二の若手富豪に依って企てられたのだが、勿論その頃は、一生の念願とする、沙翁舞台が実現される運びになっていた。
ところが、そこへ他の資本系列が加わるにつれて、九十郎の主張も、いつかは顧みられなくなってしまった。それではせめて、クルーゲルの沙翁舞台とも――と嘆願したのであったが、それさえ一蹴されて、ついに[#「ついに」は底本では「つひに」]その劇場は、バイロイト歌劇《オペラ》座そっくりな姿を現わすに至った。
もちろん舞台の額縁《プロセニアム》は、オペラ風のただ広いものとなった。また、その下には、隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》さえ設けられて、観客席も、列柱に囲まれた地紙形の桟敷《さじき》になってしまった。これでは、如何にしようとて、沙翁劇が完全に演出されよう道理はない。九十郎は一切の希望が、その瞬間に絶たれてしまったのを知った。
しかも、それと同時に、彼を悲憤の鬼と化してしまうような、出来事が起った。と云うのは、一座が九十郎を捨てて、一人残らず劇場側に走ってしまったからである。
恐らくその俸給の額は、絶えず生計の不安に怯え続け、安定を得ない座員の眼を、眩《くら》ますに充分なものだったであろう。わけても、妻の暁子から娘の幡江、孔雀までが彼を見捨てたのであるから、ついに九十郎は、一夜離反者を前にして、激越極まる告別の辞を吐いた。そして、その足で、何処ともなく姿を晦《くら》ましてしまった――と云うのが、恰度二月ほどまえ、三月十七日の夜のことだったのである。
それなり、バルザックに似た巨躯は、地上から消失してしまい、あの豊かな胸声に、再び接する機会はないように思われた。が、また一方では、それが法水麟太郎に、散光《ライム》を浴びせる動機ともなったのである。
あの一代の伊達男《だておとこ》――犯罪研究家として、古今独歩を唱われる彼が、はじめて現場ならぬ、舞台を蹈む事になった。然し、決してそれは、衒気《げんき》の沙汰でもなく、勿論不思議でも何んでもないのである。曽て外遊の折に、法水は俳優術を学び、しかもルジェロ・ルジェリ([#ここから割り注]アレキサンドル・モイッシイと並んで、欧州の二大ハムレット役者[#ここで割り注終わり])に師事したのであるから、云わば本職はだしと云ってよい――恐らく、寧ろハムレット役者としては、九十郎に次ぐものだったかも知れない。
従って、興業政策の上から云っても、彼の特別出演は上々の首尾であり、毎夜、この五千人劇場には、立錐の余地もなかった。そして、恰度その晩――五月十四日は、開場三日目の夜に当っていた。
[#ここから2字下げ、22字詰め、罫囲み]
ハムレツトの寵妃《クルチザン》
登場人物
ハムレツト 法水《のりみづ》麟《りん》太郎
王クローデイアス ルツドヰツヒ・ロンネ
王妃ガートルード 衣川暁子《きぬがはあきこ》
父王の亡霊 ┐
├ 淡路《あはぢ》研二
侍従長ポローニアス┘
ポローニアスの息
レイアテイズ 小保内《こぼない》精一
同娘
オフエリヤ 久米幡江《くめはたえ》
ホレイシヨ 陶孔雀《すえくじゃく》
[#ここで字下げ、罫囲み終わり]
一、二人亡霊
法水《のりみず》の楽屋は、大河に面していて、遠見に星空をのぞかせ、白い窓掛が、帆のように微風をはらんでいた。
彼が、長剣の鐺《こじり》で扉をこずき開けると、眼一杯に、オフェリヤの衣裳を着た、幡江の白い脊が映った。そして、卓子《テーブル》を隔てた前方には、前の幕合から引き続き坐り込んでいる、支倉《はぜくら》検事と熊城捜査局長が椅子に凭《もた》れていた。
検事は法水の顔を見ると、傍《かたわら》の幡江を指差して云った。
「ねえ法水君、実はさっきから、このお嬢さんが、君に役者を止めろ――と云っているんだぜ。とにかく、俳優としてよりも、探偵としての、君であ
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