って欲しいと云うんだからね」
その言葉が幡江の表情を硬くしたように思われた。久米幡江は、半ば開いた百合のように、弱々しい娘だった。
頸は茎のように細長く、皮膚は気味悪いほどに透明で、血の管が一つ一つ、青い絹紐のように見える。そして、肩の顫えを見ても、何か抑え切れない、感動に戦《おのの》いているらしかった。
幡江は法水を振り向いて、その眼を凝然《じっ》と見詰めていたが、泣くまいと唇を噛んでいるにも拘らず、やがて二筋の涙が、頬を伝って流れ落ちた。
それに、法水は静かに訊ねた。
「ねえ、何を泣いているんです。貴方のお父さんの行衛なら、僕はその健在を、断言してもいいと思いますがね。いいえ、大丈夫――十日の興業が終ってからでも、結構間に合うんですから。今朝の英字新聞で、僕の事を|畏敬すべき《レスペックタブル》――と云いましたっけね。だがそれは、一体どっちなんでしょうか。俳優としてか、それとも、探偵としての法水にでしょうか」
「ええ、お話したいのは父の事なんですけど」
幡江の瞳が、異様に据えられたかと思うと、みるみる全身が、はちきれんばかりに筋張って来た。「貴方は、いまの幕の亡霊を、淡路さんの二役だとお思いになりまして」
その亡霊と云うのは、云うまでもなく、ハムレットの父王の霊の事である。
所が、配役の際に、その亡霊役一つだけが余ってしまったので、止むなく法水は、台本を訂正しなければならなくなった。
と云って、王クローディアスに扮する、独逸人俳優ルッドイッヒ・ロンネは傍《かたわら》演出者を兼ねているのだし、レイアティズ役の小保内精一《こぼないせいいち》は、音声上役どころでないと云った訳で、よんどころなく亡霊の台詞を消し、ポローニアスの屍体を、幕切まで露《あら》わさないようにした。そしてその間に、その役の淡路研二を使って、一人二役を試みるより外になかったのである。
つまり、垂幕の蔭を|切り穴《グレイウ・トラップ》の上に置いて、その中で、亡霊の扮装と吹き換えを行い、それが済むと淡路は穴から奈落に抜け、舞台の下手に現われると云う趣向にした。
然し、何故に幡江は、その二役の淡路に疑念を抱いているのであろうか。法水はその一度で、好奇心の綱をスッポリと冠せられてしまった。
「では、その吹き換えの謎を、淡路君に訊ねてみましたか。合憎とあの男は、僕の剣を喰ったが最後なんです。何しろ殺されたポローニアスなんですからね。あの狭い中で、動けばこそですよ。それで、僕に斯んな愚痴話をしましたがね。――苦しいの何んのって、垂幕に向っては、碌々充分に呼吸《いき》さえつけないって」
「ええ、あの方は、私にいい加減な嘘を並べ立てました。だって、あの亡霊は、擬《まぎ》れもない父だったのですから」
幡江の淑《しと》やかな頬に、血の気がのぼって、神経的な、きっぱりした確信を湛えた顔に変ってしまった。
が、それを聴いた瞬間、検事と熊城は椅子を揺《ゆす》って笑いこけたが、法水だけは、この娘の幻に、不思議な信頼を置いているかの如くに見えた。
「それは斯うなんですの。ねえ法水さん。貴方だけは真面目にお聴き下さるでしょうね。いまの幕の間に、私は下手の舞台練習室に居りました。それは、入水([#ここから割り注]小川に落ちて溺れるオフェリヤ最後の場面[#ここで割り注終わり])の際の廻転に馴れるよう、実は稽古して居たからなんです。と云いますのは、身体《からだ》の調子のせいですかしら、どうも廻っているうちに、胸苦しくなって来るのです。それで、母も孔雀さんも、前々から、身体だけは馴らして置いた方がいい――と云うものですから、彼処《あすこ》の廻転椅子で、その稽古をする気になりました。所が、その椅子にかけて、緩く廻って居りますうちに、いきなり私の身体が慄《ぞっ》と凍り付いて、頭の頂辺《てっぺん》にまで、動悸がガンガンと鳴り響いて参りました」
「そうですか。しかし、貴女に休演されることは、この際何よりの打撃なんですからね。出来ることなら、少しくらいの無理は押し通して頂きたいんですよ。本当は、二、三日静養なさるといいのですがね。わけてもそう云う、幻覚を見るような状態の時には……」
法水は、撫然と語尾を消したが、それが却って、幡江の熱気を掻き立てた。
「ああ、貴方も幻だと仰言るのね。ところが法水さん、その幻が――それが、どうしてどうして、幻とは思われないほど、鮮かな形で現われたのですわ。御存知の通り、あの室には入口が二つありまして、一つは舞台裏に、もう一つは舞台の下手に続いているのですが、その時舞台から、退場して来る亡霊と云うのが、なんと父では御座いませんでしたろうか。ねえ法水さん、あれは他の老役《ふけやく》とは違いまして、貴方の好みから、沙翁の顔を引き写したので御座いましょう。です
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