から、髭も顎鬚も細くて、そこから鼻にかけての所が、恰度光線の工合で、十字架のように見えるのです。すると、その亡霊の髭が、絶えずビクビク動いているのでした」
[#舞台の図(fig45231_01.png)入る]
「しかし、髭が動いたと云う事に、何か特別の理由でもあるのですか」
「ええ、無論のこってすとも。それが隠そうたって、隠し了《おわ》せない、父の習慣なんですから。父はいつも、顔にチック([#ここから割り注]ビクビク顔を顰める無意識運動[#ここで割り注終わり])を起す癖があるんですの。ですから、懐かしさ半分、怖さ半分で、言葉が咽喉にからまり、目の前に靄のようなものが現われて来て、もしやしたら、父は死んでいるのでないかと思うと、その顔に覗き込まれたように慄然《ぞっ》となって、もう矢も楯もなく、私はハッと眼を瞑《と》じてしまいました。すると、その反動で、廻転椅子が廻り始めたのですが、それが幾分緩くなったかと思うと、今度はそれに手をかけて、いきなりグイと、反対の方へ廻したものがありました。父――私は、ただそうとのみ感じただけで、その瞬間、神経が寸断寸断《ずたずた》にされたような、痳痺を覚えました。けれども、一方にはまた、妙に強い力が高まって来て、いっそ父と話してみたい欲求に駆られて来たのです。それで、眼を開いてみますと、亡霊の後姿はもうそこにはないので、私は思い切って、舞台裏の方へ駈けて行きました。すると、道具裏の垂幕の蔭には――そこには、淡路さんが居りましたのですけど」
「ああ、それが淡路君なんでしたか。それなら、何もそう、奇異《ふしぎ》がる理由はない訳じゃありませんか。きっと、あの男ですよ――貴女にそう云う悪戯《いたずら》をしたのが――。で、その時は、まだ亡霊の扮装で居りましたか?」
そうしてはじめて法水は、気抜けしたように莨を取り出した。しかし、遂にその一人二役は、幡江の心中に描かれていた、幻とだけでは収まらなくなってしまった。
「いいえ、もうすっかりポローニアスになっていて、亡霊の衣裳を側に置いたまま、寝そべっていたのです。けれどもあの方は、一向何気なさそうな顔付で、舞踊練習室は通らなかった――と云うのでした。そう云えば、あの室の前には、横へそれる廊下が御座いますわね。所が、その時|衣《きぬ》摺れのような音が――たしか天井の、それも簀子の方へ行く、階段の口あたりでしたと思われたのです。と云って、その前後には、何も床板を蹈むような音はしなかったのですから、私は不審に思い行ってみました。すると、そこにあるのは、脱ぎ捨てられた、亡霊の衣裳では御座いませんか。そして、簀子の上の方で、チラチラ動いている影が、眼に映りました。けれども、私はもうその上追う事が出来なくなりました。と云うのは側の時計を見ますと、それが恰度九時になっていたからです。いいえ法水さん、たしかに父は[#「たしかに父は」に傍点]、いまこの劇場の[#「いまこの劇場の」に傍点]、何処かにいるに違い御座いませんわ[#「何処かにいるに違い御座いませんわ」に傍点]。ところ[#「ところ」に傍点]が[#「ところ[#「ところ」に傍点]が」はママ]私達は、どれもこれも卑怯者ばかりなんですの。父の一生を台なしにして、あの無残な破滅に突き落してしまった……」
幡江は膝頭をわなわなと顫わせ、辛ろうじて立っているように思われた。
所で、彼女がいま、九時と云う時刻を口にしたのだったが、その理由を云うと、道具建ての関係で時間が遅れた場合には、続く二場を飛び越えて、次を、オフェリヤ狂乱の場とする定めになっていたからである。
しかし、不思議な事には、検事の時計も、熊城のも、指針がまだ九時には達していなかった。そして、今がかっきり八時五十分だとすると、その時計が九時を指している頃は、ほぼ八時三十分頃ではなかっただろうか。更に、その時計を進ませたと云うのには、何か幡江の追及を阻《こば》む意外[#「意外」はママ]にも、意味があるのではないだろうか――などと考えて来ると、法水の頭の中が急にモヤモヤとして来た。
が、思い付いたように、化粧鏡の抽斗《ひきだし》から何やら取り出して、その品を卓上に載せた。けれども、その口からは、意外な言葉が吐かれて往ったのである。
「幡江さん、僕はこの品一つで、一人の男の心動を聴き、呼吸の香りを嗅ぐ事が出来ました。とうにこの通り、貴女のお父さんから、消息を貰っているのですよ」
そう云って、突き出したのは、洒落れた婦人用の角封だった。が、内容を読み終ると、同時に三人は、呆気にとられた眼で法水を見上げた。
それは、韻律を無視した英詩で記されたところの、次のファン・レターに過ぎなかったのである。
In his costumes he recites
The
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