な彼が、どうしてどうしてさように、端たない振舞を演じようとは思われぬのである。然し、そうして根掘り葉掘り、さまざま詮索を凝らしているうちに、ふと彼等の胸を、ドキンと突き上げたものがあった。
 と云うのは、はじめ座員に離反されて、失踪して以来、かれこれもう、二ヵ月にもなるのだが、それにも拘らず、生死の消息さえ一向に聴かない風間九十郎のことである。
 事に依ったら、何時の間にか九十郎は、この劇場に舞い戻っていたのではないか。そして、こっそりと観客の中にまぎれ込んでいたのを、法水の烱眼《けいがん》が観破したのではないだろうか……。だが、云うまでもなく、それは一つの臆測であろうけれども、風間の神秘的な狂熱的な性格を知り、彼の悲運に同情を惜しまない人達にとると、何んとなくそれが、欝然とした兆《きざし》のように考えられて来る。
 何か陰暗のうちに、思いも付かない黙闘が行われているのではないか――そう考えると、はやそれから、秘密っぽい匂が感じられて来て、是非にも、最奥のものを覗き込みたいような、ときめきを覚えるのだった。
 もしやしたら、この壮麗を極めた沙翁記念劇場の上に、開場早々容易ならぬ暗雲が漂っているのではないか――そうした怖れを浸々と感ずるほどに、この劇場は、既に風間の魂を奪い、彼の望みを、最後の一滴までも呑み尽してしまったのであった。
 然し、何より読者諸君は、法水が戯曲「ハムレットの寵妃《クルチザン》」を綴ったばかりでなく、主役ハムレットを演ずる、俳優として出現したのに驚かれるであろう。けれども、彼の中世史学に対する造詣《ぞうけい》を知るものには、何時か好む戯詩として、斯うした作品が生まれるであろう事は予期していたに相違ない。
 その一篇は、「黒死館殺人事件」を終って、暫く閉地に暮しているうち、作られたものだが、もともとは、女優|陶孔雀《すえくじゃく》に捧げられた讃詩なのである。
 現に孔雀は、劇中のホレイショに扮しているのだが、この新作《ニュー・ヴァージョン》では、ホレイショが女性であって、ヴィッテンベルヒに遊学中、ハムレットと恋に落ちた娼婦と云う事になっている。
 つまりその娼婦を、男装させて連れ帰ったと云うのが、悲劇の素因となり、全篇を通じて、色あでやかな宮廷生活が描写されて行く。そして、ホレイショはまず、嫉妬のためにオフェリヤを殺す。しかも一方では、王クローディアスやレイアティズとも関係するばかりでなく、末には諾威《ノルウェー》の王子フォーティンプラスとも通謀して、ハムレット亡き後の丁抹《デンマーク》を、彼の手中に与えてしまうのである。
 その女ホレイショの媚体は、孔雀の個性そのものであるせいか、曽ての寵妃中の寵妃――エーネ・ソレルの妖|※[#「さんずい+失」、第3水準1−86−59]《しつ》振りを凌ぐものと云われた。
 従ってこの淫蕩極まりない私通史には、是非の論が喧囂《けんごう》と湧き起らずにはいなかった。第一、女ホレイショの模本があれこれと詮索されて、或は妖婦イムペリアだとか、クララ・デッティンだとか云われ、またグラマチクスの「丁抹史《ヒストリア・ダニカ》」や、モルの「|文学及び芸術に於ける色情生活《ディ・エロティクス・イン・リテラツル・ウント・クンスト》[#ルビの「ディ・エロティクス・イン・リテラツル・ウント・クンスト」は底本では「ディ・エロティクス・イン・リテラツル ウ・ト・クンスト」]なども持ち出されて、些細な考証の、末々までも論議されるのだった。
 然し、劇壇方面には、意外にも非難の声が多く、結局、華麗は悲劇を殺す――と罵られた。勿論その声は、風間九十郎に対する隠然たる同情の高まりなのであった。
 風間九十郎は、日本の沙翁劇俳優として、恐らく古今無双であろう。のみならず、白鳥《スワン》座の騎士――と云われたほどに、往古のエリザベス朝舞台には、強い憧れを抱いていた。
(前《ボーダー》、奥《ハインダー》、高《アッパー》)と、三部に分れる初期の沙翁舞台――。その様式を復興しようとして、彼は二十年前の大正初年に日本を出発した。それから地球を経めぐり、スタニスラウスキーの研究所を手始めにして、凡ゆる劇団を行脚《あんぎゃ》したのだった。
 けれども彼の、俳優としての才能はともかくとして、その持論である演出の形式には、誰しも狂人として耳をかそうとはしなかった。そして、疲れ切った身に孔雀を伴い、敗残の姿を故国に現わしたのが、つい三年前の昭和×年――。
 そう云えば、滞外中九十郎が、第二の妻を持ち、その婦人とは、ラヴェンナで死別したと云う噂はあったけれども、その浮説が遂に、混血児の孔雀に依り裏書された訳である。
 然し、日本に戻ってからの九十郎には、言葉に不馴れのせいもあって、それは非道い、厭人癖が現われていた。のみならず、
前へ 次へ
全17ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング