Aと云う名を、僕はクリテムネストラに変えて貰いたいんです。姦通・嫉妬・復讐――ねえ暁子さん、ロンネと幡江は、今までどんな関係にあったのでしょうか」
 と風間が帰朝してからも、尚絶とうともしないロンネとの不倫な関係を、法水は暗に仄めかした。そして、暁子の怖し気な眼を見やりながら、
「なるほど子供は、自分の血と肉を分けた、一部に違いありません。だがもし、その愛と同じ程度の、憎しみが傍《かたわら》にあるとしたらどうなりましょう。そうなると、母親の残虐性は、もはや心理上の謎ではなくなってしまうのですよ。僕は思い切って云いますが……」
 と云いかけたときに、暁子は、聴くまいとするものの如く立ち上った。そして、引っ痙れた顔を、法水にピタリと据えて、
「よろしい、私は自分自身で、風間を探し出しますわ。でも貴方は、私に斯う仰言りたいのでしょう。お前は、吾が子の死の悲しみを忘れ、そうしてまでも、自分だけを庇《かば》おうとする――って。結局、風間を突き出すのが、一番いい方法だと云う事は、私にもようく分っているんですの」
 そうして、暁子は去ってしまったが、今の問答は何んとなく、法水の詭弁のように思われた。四人をほしいままに踊らせたと云うのも、それぞれに底を割ってみれば、風間を捜し出す、前提に過ぎないのではないだろうか。
 然し、それまでに宏壮な場内を、隅々までほじり散らしたにも拘らず、遂に風間は発見されなかった。そして、事件の第一日は空しく終ってしまった。

  三、風間九十郎の登場

 翌日は、他の劇団から傭った女優で、欠けたオフェリヤを補い、沙翁記念劇場はいつも通り蓋を明けた。
 が、前夜の惨劇が好奇心を唆ったものか、その夜は補助椅子までも、出し切った程の大入りだった。然し、オフェリヤ殺し場は、遂に差し止められて、あの無残な夢を新たにしようとした、観客を失望させた。
 法水は演技の進行中も、絶えず俳優の動作に注意を配っていたが、恰度四幕目が終って休憩に入ると、何んと思ったか、暁子と孔雀を自分の室に招いた。
「僕はとうとう、一つの結論に達しましたよ。と云うのは、あの当時、風間は奈落には居りませんでした。実は舞台の前方――隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》の中に潜んでいたのです」
 と冒頭吐かれた言葉には、女二人のみならず、検事も熊城も驚かされてしまった。熊城は透さず抗議した。
「冗談じゃない。常套《じょうとう》を嫌う君の趣味は、いつもながらの事だが、然し、隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》の入口と云えば、下手の遙か外れじゃないか。そして、そこと奈落の壁には、ほんの腿が入る位の丸窓が二つ三つ明いているに過ぎないのだ。だから、道具方が開閉器《スイッチ》室に入るのを、見定めてからだと、彼処《あすこ》へ行くまでに、時間の裕《ゆと》りがない。第一君は、刺されたのが奈落の中央だと云う事を、忘れているらしいね」
「そうなるかねえ」
 法水は、嘲《せせ》ら笑うような響きを罩めて云った。
「知っての通り、屍体の顔は至極平静な表情をしている。所が、奇妙な事には、眼球が非道く突き出ているんだ。そこに、あの奏楽所からでないと行えない、一つの徴候が含まれているんだよ。ねえ熊城君、幡江が一気に咽喉をかき切られた場所と云うのは、実を云うと、奈落の中央ではないのだ――その端にあったのだよ。つまり、舞台から奈落に落ち込んで行く間は、身体がくの字なりになり、胸が圧されて、非道く窮屈な姿勢だったに相違ない。所が、漸《ようや》く半身が奈落に入ると、胸が寛《ゆる》やかになって、一時に溜り切った息を吐き出すだろうからね。そこへ、奏楽所の小窓から手が差し伸べられて、頸動脈も迷走神経も、幡江はともども、一文字に掻き切られてしまったのだよ。何故なら、縊死者《いししゃ》の眼を見ても判る通りだが、激しい息を吐く際には、脳が膨張するので、眼球がそれに圧されて、突き出てしまうのだ。また、犀利な刃物を、非常な速力で加えた場合には、血管の断面が、一時は収縮するけれども、やがて内部の圧力が高まるにつれて、傷口からドクドクと吹き出て来るのだ。つまり熊城君、その二つの理論で、奈落の中央から血が滴り始めた理由が判るじゃないか。それから次に云いたいのは、あの妖術のような震動が、どうして起されたか――なんだ」
 と息の間を置かずに、法水は云い続けた。
「たしかに、あれからうけた印象は、悽愴の極みだったよ、まさにその超自然たるや、力学の大法則を徹底的に蹂躪している。然し、あの現象は、この建築固有のもので、決して人の手で行われたのではない。当然、あの場面には起るべきだったし、ただ風間がそれを知っていて、舞台裏の注意を、自分から他に、外らそうとして利用したに過ぎない。ねえ支倉君、群衆心理の波及力には、悪疫以上のものがあ
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