驍ニ云うじゃないか。所が、その病源と云うのが、有名なツェルネル錯視なんだよ。現に、桟敷の円柱を見給え。横につけられた溝が、上から斜めに捲かれていて、それが一本置きに向き合っているだろう。だから、花弁が散って来て、その反映がチラチラ明滅すると、柱の平行線が、かわるがわる傾《かし》いで行くように見えるのだ。確か、三十年程前ライプチッヒ劇場にも、略々《ほぼ》それに似た、現象が起ったとか云うそうなんだよ」
その間他の四人は、生気のない脱殻のように茫然としていた。まさに、変異の極みとのみ思い込んでいた劇場の震動も、蓋を割ってみれば他愛もなく、五千人の眼の中に、追い込まれてしまったではないか。
暁子は、指を神経的に絡ませて云った。
「ですけど、風間の方は一体どうなるんでしょう。なるほど、そう云う仮説は、貴方がたには是非必要でしょうけれども、私達には、風間の身体一つさえあればいいのですからね」
「それは次の幕に……」
法水は確信を仄めかして、立ち上った。
「実は、風間が奏楽所を利用したのを知って、僕はその場所に最短線を引いてみました。するとそれに当ったのが、道具置場じゃありませんか。たしか彼処には、次の幕に使うオフェリヤの棺などが置いてありましたね。僕はその棺に、舞台の上から風間を指摘して、抛り込んでやりますよ」
次の場面「墓場」の幕が上ると、書割は一面に、灰色がかった丘である。雲は低く垂れ、風の唸りが聴こえて、その荒凉たる風物の中を、ハムレットがホレイショを伴って登場する。
やがてハムレットが、オフェリヤの棺を埋めた、墓穴の中に飛び下りると、その瞬間、王妃の暁子が絹を裂くような悲鳴を上げた。何故なら、その重た気な棺の蓋を、法水が両手に抱えてもたげ始めたからである。
所がその中には、重錘《おもり》と詰め物が詰まっていると思いのほか、蓋の開きにつれて得も云われぬ悪臭が立ち上って来る。そして、全く明け切られたとき、一同の眼は暗さに馴れるまで、凝《じっ》と大きく見開かれていた。すると、その薄闇の中から次第に輪廓を現わして、やがて一同の眼に、飛び付いて来たものがあった。
そこには一人の、腐爛した男の屍体が、横たわっていたのである。
「ああ、風間だ。風間が……」
暁子は、地底から湧き出たような声で叫んだ。
意外にもそれは、幡江の下手人と目されている、風間九十郎だったのである。
着衣も、腐汁に浸みた所だけは、腐ってボロボロになり、そこから黄ばんだ、雁皮みたいな皮膚が[#「皮膚が」は底本では「皮腐が」]覗いている。眼窩には、…………………………溜っているだけで、黒いバサバサした髪が………………………跡には、肉の表面がドス黒い緑色に見える。そして、その上には、瘠せた蛔虫のような形、…………………………………………………。
既に、風間九十郎の上には、見る影もない腐朽の印《しるし》がとどめられているのだった。
「こら坊主、香を焚け、香を……」
墓穴の中から躍り出ると、法水は台本にもない台詞を叫んだ。そして観客に悪臭を覚られまいとした。
然し、続いて今度は、満場を総立ちにさせたほどの出来事が起った。
と云うのは、レイアティズがハムレットに争いを挑むところで、その役の小保内精一が長剣を抜いて突っ掛かって来ると、いきなり蹌踉いたものか、その剣光を目がけて、孔雀が飛び出したのであった。それはまったく、電光のような敏《す》ばやさで、ハッと感じた小保内も、剣を引く隙がなく、余勢が孔雀の心臓を貫いてしまった。
その刹那、孔雀の全身が像のように静止して、何か言葉のような引っ痙れが、ひくひく頬の上で顫えていた。そして、唇の両端から、スウッと血の滴りが糸を引くと、何やら模索しているようだった眼が一点に停まり、やがて孔雀は、棒のように仆れてしまった。
その同時に起った二つの出来事に依って、事件の帰趨は、略々《ほゞ》判然と意識されたけれども、果してそれが、真実であるかどうか迷わなければならなかった。
然し、その翌夜になると、法水は劇場に一同を集め、事件の真相を発表した。淡い散光《ライム》の下で昨夜通りの書割の前で、法水はあの妖冶《ようや》極まりない野獣――陶孔雀の犯罪顛末を語り始めたのであった。
「最初に順序として、僕はこの事件に現われた、風間の影を消して行きたいと思うのです。勿論あの手紙は偽造であり、淡路君の経験も孔雀の陳述も、みな、供述の微妙な心理から生まれ出たものに相違ありません。然し、幡江が淡路君の亡霊姿を見て、それを九十郎と信じたのは、まさに偽りではない。が、さりとてまた実相でもなく、実は幡江の錯覚が、起した幻に過ぎないのです。と云うのは心理学上の術語で仮現運動と云って、十時形に小さい円を当てて、その中心に符合させる。そして、その二つを、か
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