ノ等しかったのである。
 やがて、検事がいそいそとして、その意味を口にした。
「君は早々に、この事件の賽の目を、二つだけにしてくれた――その事は、何んと云っても感謝するよ。幡江が、自分の仇敵であるロンネから離れられず、あまつさえ、その種を宿しているのだとしたら、風間の憎悪は、第一自分の肉身にかかって行くだろう。また、妻のあるロンネにとると、幡江が仇し子を生むと云う事は、どんなに怖しい事か。そして、幡江から堕胎を拒絶されたとすれば、それは母子《おやこ》ごと葬ろうとしたと云っても、もはや心理上の謎でなくなるのだ。おまけに不在証明はないのだし、六尺豊かなあの男なら、幡江の咽喉を下から刺し貫く事も出来るだろう」
「いや、そうされるのは、多分法水さんの方でしょうよ。いま小保内のやつが、最後の幕で彼奴《あいつ》の胸をぶん抜いてやる――と力味返っていましたぜ」
 と背後で太い濁声《だみごえ》がしたかと思うと、何時の間にか、そこには淡路研二が突っ立っていた。
 この老練な新劇界の古|強者《つわもの》は、臆する色もなく、椅子を引き寄せた。彼はずんぐりとした胴に牡牛のような頸を載せていて、精悍そうな、それでいて、妙に策のありそうな四十男だった。
「何しろ小保内には、照明掛りの証言があるんですからね。自然気の強い事も云える訳ですが僕は今始めて、舞台裏にも、絶海の孤島と云うやつがあるのを知りましたよ。所で、これだけ云ってしまえば、もうそれ以外に、お訊ねになる事はないと思いますが、ああそうそう、貴方から幡江さんの幻覚論を伺うんでしたっけな」
「いや、あの両所存在《ピロケーション》([#ここから割り注]同時に一人の人物が異なった場所に出現する事[#ここで割り注終わり])の謎なら、とうから僕は問題にしちゃいませんがね」
 法水は、眦《めじり》に狡るそうな皺を湛えて、云い出した。
「あの時、亡霊に吹き変ってから、君はたしか奈落へ下りたでしょう。そうすると、君にとって何んとも不幸な暗合が生まれてしまうのです。君は、クリテウムヌスの『虚言堂《ブギアーレ》』を読んだ事がありますか。羅馬《ローマ》の婦人は、男の腰骨を疲れさせるばかりではなかったそうです。凍らせた月桂樹の葉で、手頸の脈管を切ったとか云いますからね」
「なに、それでは僕が、その間に何か、仕掛でも作って置いたと云うのですか」
 淡路の顔には、突然憤怒が漲って、両手をわなわなと顫わせた。が、そうしているうちに、その硬張った筋が次第に弛んで行って、何か激情を解かして行くものが、あるように思われた。
 やがて、淡路は切なそうな諦めの色を現わして、
「止むを得ません。自分の無辜《むこ》を証明するためには、恩師との約束も反古にせんけりゃならんでしょう。実はあの時、僕は奈落に降りはしなかったのです」
 と奈落と云う言葉を口にすると、左り眼を奇妙にビクリと瞬き、淡路は風間の存在を裏書した。そして、最後に付け加えて、
「そんな訳で、今では僕も小保内も、恩師に反いた事を後悔して居ります。そして、貴方と云う侵入者に、決して快よくない事は、今も聴いた小保内の言葉でもお判りでしょう。だが、どうして師匠が捕まるもんですか。決して決して捕まりっこありませんぞ」
 遂に、法水の巧妙なカマが、淡路の口を割り、あの朦朧とした幻が、実在に移される事になった。そうして次々と、焦点面に排列されてゆく風間の姿は、最早疑うべくもないものになってしまった。
 然し、法水の顔は、益々冴えないものとなって、間もなく衣川暁子が、入って来たのも気附かないほどであった。
 風間九十郎の妻、幡江の母暁子は、既に二十余年も新劇のために闘い続けている。そのためか、暁子の容姿からは女らしさが失せていて、眼は落ち窪み、鼻翼には硬い肉がついて、何かしら、冷酷な感情と狂熱めいた怖しさを覚えるのだった。
 彼女は座につくと、胸をせり上げ、荒々しい語気を吐いた。
「どうしたって云うんでしょう。あのメデアみたいな男が、捕まらないなんて。彼奴は、自分の目的のためなら、それが吾が子だって、殺し兼ねませんわ。私、あの男の眼も胸も剥り抜いてやって、いっそ片輪にしてしまいたいんですの」
「いや、僕は決して、そうとは信じませんね」
 法水は強く否定して、今までにない厳粛な調子になった。
「そうなったら第一、人間生活の鉄則がどうなってしまうのでしょう。父と娘《こ》――その間には無意識ですが、極く微妙な×××な結合があるのです。いっそこの事件は、父に依っては絶対に行えないものだ[#「父に依っては絶対に行えないものだ」に傍点]――と云いましょうか」
「では、父でないとすると」
 暁子は冷やかに云ったが、顔には包むにも包み了せようのない、憎悪の波が高まって行った。
「ですから、いま貴方が云われたメデ
前へ 次へ
全17ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング