Aそこに、何事が起ったのであろうか。いきなり、金雀枝の幹にしがみついて、孔雀がつんざくような悲鳴を上げた。
 見ると、驚いたことには、一端は消え去った筈のオフェリヤの屍体が、再び今度は、書割際の切り穴から現われて来た。彼女は、ジョン・ミレイズの「オフェリヤ」そのままの美しさで、キラキラ光る水面を、下手にかけて流れ行くのである。そして、前方の切り穴の上を越えて、上体を額縁《プロセニアム》の縁から乗り出し、あわや客席に墜落するかと思われたが、その時折よく、緞帳《どんちょう》が下り切ったので、彼女は辛くも胸の当りで支えられた。
 すると、その機《はず》みに、頸だけがガクリと下向きになって、その刹那、一つの怖しい色彩が観客の眼を射った。
 オフェリヤの頸には、その左側がパクリと無残な口を開いていて、そこから真紅の泉が、混々と湧き出して行くのである。しかも、その液汁の重さのためか、素馨花《ジャスミン》の花冠が、次第に傾いて行って、やがて滴りはじめた、血滝の側から外れて行くではないか。

  二、オフェリヤ狂乱の謎

「まるで熊城君、この顔は少しずつ眠って行ったようじゃないか。だんだんと脣の上の微笑が分らなくなって行って、遂に消え失せる。そして、その脣が一寸触れたかと思うと、再び分れる。然し、気のせいか、どうも、眼球が少し突き出ているようじゃないかね。たしかにこれは、云い表わし難い言葉の幽霊だよ。この事件の幽霊は、淡路の一人二役にもなければ、柱の震動でもない。僕は、この一点にあると思うのだ」
 と白い皮膚の上の脈管を、しげしげと見入りながら、法水はまるで、詩のような言葉を吐いた。
 突如起った惨劇のために、その日の演技はそれなり中止されて、人気のない、ガランとした舞台に立っているのは、この三人きりであった。
 幡江の全身には、この世ならぬ蒼白さが拡がっていた。手足をダラリと臥《ね》かして、その顔には恐怖も苦痛の影もなく、陰影の深い所は、殆ど鉛色に近かった。そして、脣は緩かな弓を張りそれには無限の悲しみが湛えられていた。
 右の頸筋《くびすじ》深く、頸動脈を切断した切り創《きず》は、余程鋭利な刃物で切ったと見えて、鋭い縁をそのまま、パクリと口を開いている。そしてそこには、凝結した血が、深い溜りを作っていて、緞帳の余映で、滲み出た脂肪が金色に輝き、素馨花《ジャスミン》の冠が薄っすらと色附いている。それが、この惨状全体を、極めて華やかなものにしていたのである。
「熊城君、君は忘れやしまいね。風間九十郎の挑戦状の中に、|来たれ、列柱を震い動かさん《ヘイル・クウェーク・スタイルズ》――とあったのを。それが、とうとう実現されてしまったのだよ」
 検事は、風間の魔術に酔わされて、声にも眼にも節度を失っていた。
「うん、地震でもないのに、この大建築を玩具《おもちゃ》のように揺り動かすなんて、九十郎の不思議な力は底知れないと思うよ。だが、奈落とはよく云ったものさ」
 熊城は屍体から顔を離して、プウッと烟を吐いた。
「この事件でも、舞台の床一重が、天国と地獄の境いじゃないか。サア法水君、奈落へ下りるとしようか」
 いずれにしても惨劇が奈落に於いて行われた事は明らかなので、舞台の上は、事件とは何んの関係もないのだった。それから三人は、煤《すす》け切った陰惨な奈落に下りて行ったが、そこで凡ての局状が明白にされた。
 が、それに先立って、一ことオフェリヤを運んで行く、小川の機械装置に触れて置かねばならぬかと思う。
 それは、前後二つの切り穴を利用して、間に溝を作り、その中で、調帯《ベルト》を廻転する仕掛になっていた。従って、その装置は、戦車などに使う無限軌道のように作られていて、奈落から天井を振り仰ぐと、二重に作られている調帯の中央に、一つ大きな、函様のものが見える。
 それが、オフェリヤを沈ませる装置であって、最初幡江がその函の中に入ると、下には扇風器が設けられてあって、その風のために、水面に浮んだような形で、裳裾が拡がる。そして、廻りながら、腰を落して行くので、てっきり観客の眼には、泥の深みへ、はまり込んで行くように見えるのだった。
 幡江はそれが終ると、扇風器の上にある、簀子の上で仰向けになって、きっかけを、下の道具方に与える。と今度は、調帯が幡江を載せたまませり上って行って、その儘前方の、切り穴から奈落に落し込むのである。
 所が、血の滴りは、調帯の恰度中央辺から始まっていて、最初の切り穴からそこまでの間にはなかった。それを見ても、幡江が刺された場所は明白であり、その高さも、六尺近いものなら、し了《おわ》せるだろうと思われた。けれども、兇器は何処《いずこ》を探しても見当らず、血痕も、調帯《ベルト》の後半以外には皆無だった。尚、当時奈落には、二人の道具方がい
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