ュ、云わば、幇間《ほうかん》は如何なるものであるかと云う画幅に過ぎない――と」
「幇間――。ああ貴女も、お父さんと同じ皮肉を僕に云うのですか。|此処に穢わしき者あり、彼処へ去れ《ソルディ・スント・ヒック・ベレンダ・スント・ソルディダ》――なんでしょう。ハハハハ」
そう云って法水は、空虚を衝かれたような気持を、わずかに爆笑でまぎらわせてしまった。が、その時、開幕の電鈴《ベル》が鳴った。
そして、次の幕――「エルシノア城外の海辺」が始まったのである。
然し、その幕から始めて、観客には見えないけれども、暗澹とした雲が、舞台を一面に覆い包んでしまった。
俳優達はどれもこれも、演技が調子外れになり、台詞の節度がバラバラになった。そして、詰まらない事が神経をたかぶらせて、いっそ何事か起ってしまえば、この悪血が溜り切った血の管が、空になるだろうなどと思われもするのだった。けれども、その後の二場は何事もなく終り、愈《いよいよ》オフェリヤ狂乱の場となった。
所が、幡江は、あのような打撃をうけた後のためか、それとも自分の現在が、オフェリヤに似ていて、心の奥底に秘められた、悲しい想い出を呼び醒まされたためでもあろうか。花渡しの場になると、彼女自身が、或はそうなったのではないかと思われたほどに、狂いの迫力が法水を驚かせてしまった。
そして、一人一人に渡す花にてんで違ったものを持ち出したのを見て、三人は秘かに顔を見合わせたのだった。
(オフェリヤの台詞《せりふ》)「さあ連理草《スウィート・ピイ》(レイアティズに)、別れってこと、それから三色菫《パンジイ》、これは物思いの花よ。あなたには茴香《ういきょう》(王に)それから小田巻。あなたには芸香《ヘルウンダ》(王妃に)、私にも少しとって置こう。これね、安息日の祈草と云うのよ。それから、あの方には、雛菊を上げましょう。ああ、この迷迭香《ローズ・メリー》でもフルール・ドウ・ルシイ――いいえ|百合の花《フルール・ド・ルス》でも、どっちでもいいのだけれどきっと凋《しぼ》んでしまうにきまってますわ、父の没《な》くなりました時、それは立派な最期でしたけど」
と、弥生の春の花薔薇、いとしのオフェリヤは、そうして残りの花を、舞台の縁にふり撒くのだった。
がその時、幡江は暫く前方の空間を瞶めていて、そこに何やら霧に包まれながら遠退いて行くようなものが、あるかに思われた。
続いて舞台が廻ると、そこはエルシノアの郊外。いよいよ女ホレイショが、オフェリヤを小川の中に導く、殺し場になった。
そこは、乳色をした小川の流れが、書割一体を蛇のようにのたくっていて、中央には、金雀枝《えにしだ》の大樹があり、その側《かたわら》を、淡藍色のテープで作られている、小川の仕掛が流れていた。その詩的な画幅が夢のような影を拡げて、それを観客席に押し出して行くのだった。
然し、その熟《う》れ爛れた仲春の形容は、一方に於いては、孔雀の肢体そのものだった。
孔雀は丈《せい》高く、全身がふっくらした肉で包まれていて、その眼にも脣にも、匂いだけで人の心を毒すような、烈《はげ》しいものがあった。得も云われぬ微妙な線が、肩から腰にかけ波打っていて、孔雀は肥った胸を拡げ、逞ましいしっかりした肉付の腰を張って、夢幻の寵妃を、その人であるかの如く、演じて行くのである。そしてこの、男のような声を出す女優が、まだ十七に過ぎないのを知ったら、誰しも、その異常な成熟には怖しさを覚えるであろう。
さて演技が殺し場まで進むと、狂いのはかなさにオフェリヤは、ホレイショに導かれて、小川の中に入って行く。と、最初は裳裾《もすそ》が、あたかも真水であるかの如く、水面に拡がるのであるが続いてそれは、傘のように凋《すぼ》まって、オフェリヤは水底深くに沈んで行くのだった。そこが何より、この場面仕掛の見せ所だったのである。それから、ホレイショの凄惨《せいさん》な独白があって、それが終ると、頭上の金雀枝を微風が揺り、花弁《はなびら》が、雪のように降り下って来る。と、その下から、屍体が水面に浮き上って来るのだ。
そして、花の冠をつけた弥生の花薔薇は、そのまま脚光の蔭にある、切り穴から奈落に消えてしまうのであった。
所が、そうしてオフェリヤの屍体が舞台から消え去ったとき、何んともたとえようのない、驚くべき出来事が観客席に起った。
最初は桟敷の後方から、柱が揺れる――と叫ぶ声がしたかと思うと、その劇動が、この大建築を忽ち震い始め、ぎっしりと詰まった五千人の観客が、悲鳴を上げながら総立ちになった。
然し、その数瞬後には、また夢から醒めたような顔になって、一度はたしかに覚えた筈の震動が、不思議にもその瞬間限りで去ってしまったのに気が附いた。そして、再び視線を舞台に向けたとき
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