るあいだは地獄というわけですね。まったく、この蒸し暑さときたら死んじまいたいくらいだ。眼がぽっと霞んで来るし、なにも考えられなくなる。だが、あれ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]、アッ、ありゃ何だ」
下桁《ブーム》のしたの天幕《テント》のかげから、折竹が弾かれたように立ちあがった。そとは、文字どおりの熱霧の海だ。波もうねりもなく濃藍の色も褪せ、ただ天地一塊となって押しつぶすような閃めき。と彼に、左舷四、五十|鏈《ケーブル》の辺に異様なものが見えるのだ。環礁《アトール》のようだが色もちがい、広茫水平線をふさぐに拘わらず、一本の椰子もない。
「あれかね、あれは有名な『太平洋漏水孔《ダブックウ》』の渦だよ。環礁《アトール》のように見えるのは、盛りあがった縁だ。とにかく、はいったら最後二度と出られないという、赤道太平洋のおそろしい魔所なんだ」
その時、船首の辺でけたたましい叫びが起った。一人の水夫が、檣梯《リギン》の中途でわれ鐘のような声で呶鳴っている。
「おうい、変なものが見えるぞう。右舷八点だ……鳥が、籠みてえなものを引いてゆくが……見えたかよう」
まもなく、その二羽の鰹鳥が射止められた。引きあげられたのは葡萄蔓の籠で、なかを覗いた男がアッといって飛び退いた。裸体の、愛らしい五つばかりの男の子が、呼吸《いき》もかすかに昏々とねむっている。なんだ、夢ではないのか。この、ちかくに島とてない赤道下の海を、鳥に引かれながら漂う頑是ない男の子。
と、しばらく全員は酔ったような眼で、暑さも忘れ、じっとその子をながめている。と間もなく、その子の背に手紙が結いつけられてあるのが、見つかった。船長が手にとったが、すぐ折竹にわたし、
「君、ドイツ語のようだね」
「そうです、読みましょうか。最初に、この子の仮りの父となって暮すこと一月。いま『太平洋漏水孔《ダブックウ》』中にある独逸人キューネより――とあります」
太平洋漏水孔《ダブックウ》――たった一字だががんと殴られた感じだ。しかも、みればこの子は日本人のようだし、どうして、あの魔海に入りどうして抜けでたのか。しばらく全員は阿呆のように、じりじりと照る烈日のしたで動かない。
やがて、その子は手当をされ船室で寝かされた。折竹は、いつまでも醒めない悪夢のあとのような気持、フラフラわれともなく檣舷《リギン》へのぼって、いま左舷に過ぎようとする「太平洋漏水孔《ダブックウ》」をながめていた。
斜めの海、海の傾斜。とうてい、夢にも思えなかったものが、現実として、眼のまえにある。そこには、幾重にも海水が盛りあがり、まっ蒼に筋だっている。その大漏斗をまく渦紋のあいだには、暗礁がたてるまっ白な飛沫。しかし、それはただ眼先だけのことで、はや四、五|鏈《ケーブル》先はぼうっと曇っている。そして、煙霧のかなたからごうごうと轟いてくるのが、「太平洋漏水孔《ダブックウ》」の渦芯の哮りか……。
折竹は、それをキューネの絶叫のように聞きながら、魔海からの通信を読みはじめたのである。
*
手紙の主フリードリッヒ・キューネは、|独逸ニューギニア拓殖会社《ドイッチェ・ノイ・ギネア・ゲセルシャフト》の年若い幹部であった。以前はお洒落で名高い竜騎兵中尉。それが先年、ベルリン人類学協会のニューギニア探険に加わって、以来南海趣味にすっかり溺れこみ、退役してニューギニア会社へきたのだ。スポーツマン、均斉のとれた羚羊のような肢体。これで、一眼鏡《モノクル》をしコルセットをつければ、どうみても典型的|貴族出士官《ユノケル》だ。
そのキューネが、この五月に破天荒な旅を思いたち、独領ニューギニアのフインシャハから四千キロもはなれた、かの「宝島」の著者スチーヴンスンの終焉地、Vailima《ヴァイリマ》 島まで独木舟《カヌー》旅行を企てたのである。両舷に、長桁のついた、“Prau《プラウー》”にのって……かれは絶海をゆく扁舟の旅にでた。そして、海洋冒険の醍醐味をさんざん味わったのち、ついに九月二日の夜フインシャハに戻ってきた。――話はそこで始まるのである。
土人の“Maraibo《マライボ》”という水上家屋のあいだを抜け、紅樹林《マングローブ》の泥浜にぐいと舫を突っこむ――これが、往復八千キロの旅路のおわりであった。ところが、海岸にある衛兵所までくると、まったく、なんとも思いがけない大変化に気がついたのだ。そこには、ドイツ兵士は一人もいず、てんで見たこともない土民兵が睡っている。ちょっと、ポリネシア諸島の馴化土人兵《フイータ・フイータ》のような服装《なり》だ。
「なんだろう。国の兵隊がいず、変なやつがいるが……」
と、見るともなくふと壁へ眼をやると、そこに、土民への布告が張ってある。かれは、みるみる間にまっ蒼になった。留守中、大戦が勃発しこの独領ニューギニアは、いま濠洲艦隊司令官の支配下にあるのが、わかった。ことに、その布告の終りの数行をみたとき、彼はわれを忘れてかっと逆上したのである。
[#ここから2字下げ]
――濠洲軍は、なんじ等に善政を約束する。思えば、永年苛酷なるドイツ植民政策に虐げられた汝らは、ドイツ軍守備隊長フオン・エッセンに対しても、われ等と協力し復讐をわすれなかった。彼らが、家族、敗兵らとともに密林中に逃げこんだとき、汝らはわが言にしたがい間諜をだし、たくみに彼らを導いて殱滅させたではないか。
但し、隊長夫妻ならびにその一子、以下白人戦死体の首の拾得は禁ずる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]フインシャハ守備陸戦隊長ベレスフォード
キューネは、眼がくらくらして倒れそうになった。ことに、彼と仲よしだった隊長の、子ウイリーの死を思うとかっと燃えあがる憤怒。鬼畜、頑是ない五歳の子まで殺さんでもいいだろう。おそらくそれは、平素恨みを抱く土人の仕業だろうが、なにより嗾かけたのはベレスフォードではないか。
と、わずか四月の間にかわった世の中となり、いまは身を寄せるところもない今浦島となったキューネは……それから先々もかんがえず怖ろしさも感ぜずに、ただフラフラと放心したように歩みはじめた。
(殺すぞ。鬼のようなベレスフォードのやつ、からならず殺《や》ってしまうぞ)
いま、キューネの胸のなかには、それだけの事しかない。すると、月のない夜がもっけの倖いとなり、ふらふら彷徨《さまよ》ううちに隊長官舎のそばへ出た。巨きな、腕ほどもある胡瓜の蔭に、ちらっと灯がみえる。窓はあけ放され、部屋のなかが見える。壁には、子供がかぶるピエロの帽子。卓には、オモチャの喇叭《ラッパ》や模型の海賊船《ヴァイキング・シップ》。
(ようし)彼はぐびっと唾をのんだ。
眼には眼、歯には歯だ。ベレスフォードに、男の子がいるとは……天運とはこのこと。と、ただ復讐一図に後先もかんがえず、やがて、ちいさな寝台から抱えあげたその子を、毛布にくるんでそっと持ちだしたのである。まもなく、夜風をはらんだ独木舟《プラウー》の三角帆が深夜のフインシャハを放れ矢のようにすべり出た。
密林逃亡者《ブッシュ・レンジャー》
しかし、キューネは、くらい海上にでるとさすがに亢奮も醒めた。いま、父母の懐ろから拉しこられたにも拘わらず、ベレスフォードの子はかるい寝息をたてている。この、無心神のような子になんの罪がある※[#感嘆符疑問符、1−8−78] いかに、復讐とはいえどうして殺せようと、一度理性がもどれば飛んだことをしたと急にキューネはその子が不憫になってきた。
どれどれ、すぐ坊やのお家に帰してやるよ――と、もともとキューネは子供好きだけに、毛布をあげてそっと顔を見ようとした。
夜が明けかかり、星影がしだいに消えてゆく。当て途なく流れてゆくこの独木舟《プラウー》のうえにも、ほの白い曙のひかりが漂ってきた。すると、いきなりキューネがハッと身を退くような表情になり、
「ちがう、こりゃ、ベレスフォードの子じゃない」
とさけんだ。
白人ではない。五歳ばかりの、黒い髪に琥珀色の肌。くりくり肥った愛らしい二重※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]。この、意外な東洋人の子におどろいたキューネは、がたがた独木舟《プラウー》をゆすってその子を起してしまった。
「オヤッ」
というようなまん丸い眼をして、しばらくちがった周囲に呆気にとられていたその子は、やがて、しくっしくっと泣きじゃくりを始め、
「オジチャン、ここ、ジャッキーちゃんのお家じゃないんだね」
「そうだよ。だが、もうじきに帰してやるからね。ときに、坊やはどこの子だね」
「お父ちゃんは、日本人でジョリジョリ屋だい」
「ジョリジョリ※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ああ理髪屋《とこや》さんだね。で、坊やはどこで生れたんだ」
「シドニーだよ。お母ちゃんは、去年そこで死んじまったんだ。お父ちゃんは、それから兵隊附きのジョリジョリ屋になって、今度も、隊と一緒にここへ来たんだがね。それも、先週の土曜にマラリアで死んじまったよ。ボクは、宇佐美ハチロウっていうんだよ」
五歳で、この蛮地へきて孤独の身となるだけに、なかなか、ませてもいるし利発でもある。それから聴くと、父の死後はベレスフォードの家へきて、そこの、ジャッキーちゃんの遊び相手になっているというのだ。してみると、ゆうべジャッキーが壁際に寝ていたのを、キューネが見損なったわけなのである。しかし、ともかくこの子は帰さなければならない。
「オジチャン、オチッコが出たいよ」
きゅうに、ハチロウが尻をもじもじしはじめた。
「だけど、ジャッキーちゃんは海へオシッコすると、オチンチンを撞木鮫にとられるというよ」
と、その時どうしたことか、ハチロウの腰をおさえてオシッコをさせている、キューネの手がいきなり震えはじめてきた。遠空に、色付きはじめた中央山脈を縫いながら、するするのぼってゆく英国旗《ユニオン・ジャック》。しまった、もうこの子を帰そうにも帰せなくなったと――起床ラッパの音を夢のように聴きながら、かれはまったく途方に暮れてしまったのである。
天地間、いま一人のこの身の置きどころもなくなった彼は、ハチロウの処置という重荷が加わったのだ。多分、明ければハチロウの失踪に気がつくだろう。そして、この島の内外がきびしく調べられるだろう。所詮自分は、ハチロウを帰そうとしてこの辺に迂路ついてはいられない。では、これからどこへ行こうか。
周囲はことごとく英仏領諸島。蘭領も米領も、所詮ドイツ人にとっては安全の地ではない。いまこの地上に一寸の土地もなくなった。キューネはただ悶えるのみであった。そこへ、突然ハチロウがこんなことを云いだしたのだ。
「オジチャンの、このお舟はどこへゆくんだね。坊やのお国の、日本へゆくの?」
「行ってもいいよ」
と、彼は眼先がきゅうに開けたような気がし、
「だけど、坊やはジャッキーちゃんのお家へゆくんじゃないのかね」
「うん、だけどね。ジャッキーちゃんはとっても威張るんだもの。あたいを、いつも慾ばりの悪殿様にして、ジャッキーちゃんの海賊が退治にくるんだもの。だけど、あたいのお国の日本なら虐められないだろうね」
こんな、頑是ない子が郷愁をおぼえる哀れさ。それは、やはりキューネも同じことである。オジチャンも、どれほどドイツへ帰りたいか知れないよと、口には云わないがいきなりハチロウを抱きしめ頬ずりをしながら滂沱と涙をながした。
「ゆこう坊や。坊やのお国の日本へゆこうよ」
そうして二人は、安住の地へと漂泊をはじめたのであったが……それには、まず行きようもないと云う秘境が必要だ。ところが、独領ニューギニアの最北端に、“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”という、荒れさびた岬がある。そこには、岩礁乱立で近附く舟もなく、陸からの道には“Niningo《ニニンゴオ》”の大湿地があり、じつに山中に棲む矮小黒人種《ネグリトー》さえ行ったことがないと云う。かれは、まず皇后《カイゼリン》オウガスタ川を遡っていった。
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