両側は、いわゆる|多雨の森《レイン・フォレスト》、パプアの大湿林。まい日七、八回の驟雨があり、ごうごうと雷が鳴る。その雨に、たちまちジャングルが濁海と化し――独木舟《プラウー》が、大|羊歯《しだ》のなかを進んでゆくようになる。わけても、この皇后《カイゼリン》オウガスタ川はおそろしい川で、鰐や、泥にもぐっている“Ragh《ラー》”という小鱶がいる。
 ほとんど哺乳類のいないこのニューギニアは、ただ毒虫と爬虫だけの世界だ。やがて、独木舟《プラウー》を芋蔓でつないで、いよいよハチロウを負い“Niningo《ニニンゴオ》”の湿地へとむかった。
 そのあいだの密林行。繁茂に覆われた陽の目をみない土は、ずぶずぶと沢地のようにもぐる。羊歯は樹木となり巨蘭は棘をだし、蔦や、毒々しい肥葉や小蛇ほどの巻鬚が、からみ合い密生を作っているのだ。その間に、人の頭ほどもある大昼顔が咲き鸚鵡や、巨人《モルフォ》の蝶の目ざめるような鮮色。そしてどこかに、極楽鳥のほのぼのとした声がする。やがて、百足《むかで》を追い毒蛇を避けながら、“Niningo《ニニンゴオ》”の大湿地へ出たのだった。
 そこは、幅約半マイルほどの、おそろしい死の沼だ。水面は、みるも厭らしいくらい黄色をした、鉱物質の滓《おり》が瘡蓋のように覆い、じつは睡蓮はおろか一草だにもなく、おそらくこの泥では櫂《オール》も利くまいと思われる。そしてここが、奥パプアの最終点になっているのだ。
「坊やは、ウンチがでないかね」
「また、オジチャン、泥亀《すっぽん》をとるんだろう。だけど、坊やだってそうは出ないよ」
 人糞を、このんで食う泥亀《テラピン》をとっては、この数日間二人は腹をみたしていた。しかし彼には、この沼をわたる方法がない。こんなことなら、むしろ中央山脈中に、原始的な生活をしている、矮小黒人種《ピグミー》の“Matanavat《マタナヴァット》”の部落へゆけばよかった。と、此処へきてはや一時間とならぬのに、キューネの面は絶望に覆われてしまった。
 すると、時々とおい対岸で、パタリパタリと音がする。その、なんだか聴きようによっては人間の舌打ちのように聴える音が、万物死に絶えた沼面をわたってくるのだ。と同時にそれに交って、小鳥のさけぶキーッという声がする。やがて、キューネがポンと手をうって、
「分った。ニューギニアの奥地には食肉植物の、『うつぼかずら』のひじょうに巨きなものがあるという話だったが……。そうだ、一番それを使って、この沼をわたってやろう」
 やがて、ほそい藤蔓のさきに小鳥をつけて飛ばしているうちに、キーッという叫び声とともに、ぐっと手応えがした。たしかに、「うつぼかずら」の大瓶花が小鳥をくわええたにちがいない。とそれをキューネが力まかせに引くと、一茎の攀縁一アール(百平方米)にもおよぶと云う、「|大うつぼかずら《ネペンテス・ギガス》」がズルズルと引きだされてくる。まもなく、そうして出来た自然草の橋のうえを、二人が危なげに渡っていたのである。いよいよ、目指す、“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”
「坊や、ここが当分、私たちのお宿になるんだよ」
「日本かね、オジチャン」
「いや、日本へゆく道になるのさ。坊やが、ここで幾つも幾つもおネンネしていると、そのうちにお迎いの船がくるよ」
 そして、キューネの気もハチロウの気も落着いた。みれば、果物も豊富、魚介も充分。ここから、時機がくるまで伸々と過せると、キューネもほっとしたのであった。
 しかし、そうして何事もなかったのもたった一日だけ……。翌朝、果実を見つけに茂みのなかへ入ってゆくと、ふいに、眼のまえに薄赤いものが現われた。
「あっ、何だ。サア、坊や、はやくオンブしな」
 前方でも、ザクザクと草を踏む音がする。やがて、ベゴニアの藪のなかへ蹲んだその生物を、キューネがぐいと引きだしたのである。とたんに、彼はアッと叫び、思わず離すまいと双手に力をこめた。それが、人間も人間、うら若い娘だった。
「Papalangi《パパランギ》、ああ、Papalangi《パパランギ》」
 とその娘が絶え入るような喘ぎをする。
 Papalangi《パパランギ》 とは、サモア語の白人という意味。みれは、熟れかかった桃のような肌の紅味、五体はタヒチ島土人ときそう彫刻的な均斉。思わず、キューネがほうっと唸ったように、まさに地上の肉珊瑚、サモア島の少女《トウボ》だ。
「君、そう怯えなくたって、何もしやしないよ。だが、どうして君一人が、この Malekula《マレクラ》 にいるんだね。サモアだろう※[#感嘆符疑問符、1−8−78] サモアの娘がどうして此処にいるの」
 娘が、キューネに安心するまでには長時間かかった。もし愛らしいハチロウがこの白人のそばにいなければ、おそらくこの娘は必死に逃走をはかったろう。間もなく、かの女が此処へくるについてのかなしい物語をしはじめた。娘は、名を“Nae−a《ナエーア》”という。
「私は、ながらくサモアの国王をやっている“Tamase《タマセ》”の孫です。ところが、どういう訳でしょうか、ドイツ領事が、タマセの王系を絶やそうとするのです。祖父のタマセは、今から三十年ほどまえ伯林へ送られました。また、それから転々として亜弗利加ギニアの、おそろしい土地にも送られたことがあります。
 ですけど、どうしてタマセの王系がそんなに邪魔なんでしょう。父はいま、|サモア酒《カヴァ》の中毒で廃人も同様。兄も、父に見ならって盛んに|サモア酒《カヴァ》をのんでいます。それも、みんなドイツ領事の薦めることなんですわ。私も、幼な心に見過せなくなりました。まだ去年といえば十一でしたけど、父と兄を諫めたことがあります。するとそれが、なにかドイツ領事に危険なものに見えたのでしょうか。私を、こっそり捕まえて貿易船に抛りこみ、ここの岩礁のうえで、ポンと放したのです」
 この、天人ともに許さぬ白人の暴戻は、キューネをさえ責めるように衝いてくる。まったく、ナエーアが啜り泣きながらいうように、サモアへ帰れば殺されるだろうし、といって、此処に一生いるくらいなら死んだほうが増しだという。まして、この“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”は、けっして安全な地ではないのだ。
「私、まだここには一年しかいませんけど、時々、おそろしい高潮が襲ってくるのです。その時は、木へのぼって、ぶるぶる顫えていなければなりません。そしてその潮は、ここの果実《このみ》という果実《このみ》をすっかり持っていってしまうのです。ねえ坊や、これから坊やとオジチャンとオネエチャンと三人で、どこか安楽な島へでもゆこうじゃないの」
 そうして間もなく、この“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”を三人が出ていった。果実や泥亀《スッポン》の乾肉をしこたまこしらえて、また、独木舟《プラウー》にのり大洋中にでたのだ。しかし、今度は目的地もない。ただ、絶海をめぐって、孤島をたずねよう。そしてそこが食物の豊富な常春島《エリシウム》であれば……。


    太平洋漏水孔《ダブックウ》の招き

「オジチャン、これで坊やたちは、日本へいくんだね」
 ハチロウは、外洋へでると大悦びだったが、そんなことを聴くと、キューネは鼻の奥がじいんと滲みるような思い、自分はドイツ、ナエーアはサモアへ……。いずれも帰心矢のごとしと云いながら、帰れない身だ。よくよく、おなじ運命のものがめぐり合わせたもんだと、ますますこんなことから結ばれてゆく三人。
 独木舟《プラウー》、いま南東貿易風圏内にある。この|雨桁附き独木舟《アウト・リッガード・カヌー》にはひじょうな耐波性があって、むかしは、ハワイ、タヒチ島間六千キロを、定時にこの扁舟が突破していたといわれる。
「なんだか、赤道《ピコ・オウ・ワケヤ》に近いようですわね」
 とビスマルク諸島の北端を出てから三日目の午、ナエーアが、しばらく手をかざしながら水平線を見ていたが、そういった。
「どうして、分るね」
「ホラ、蒼黒い筋が水平線にあるでしょう。あれが、凪がちかい証拠だというんです。じきに、|北の星《ホコ・パア》が見えるかもしれませんわ」
 それまでキューネは、ただ羅針盤《カンバス》だけでこの舟を進めていた。いま針路は真東にゆき、エリス諸島辺へむかっている。それだのに、赤道ちかいとは何事であろう。事によったら、皇后《カイゼリン》アフガスタ川の叢林中につないで置いたあいだ、なにか羅針盤《カンバス》が狂うような原因があったのではないか。そこで、念のため軽便天測具《カラバッシュ》を持ちだして、その夜、星を測ってみたのだ。なるほど、セントウルスの二つの輝星の位置がちがう。
 かれは、軽便天測具を置くとナエーアの手をにぎった。はじめて土人娘のカンの正しさを知ったのだ。
「私たちが、もしこの舟のうえに一生いるようになったら……」
 ナエーアがある夜キューネにこんなことを云いだした。星影をちりばめたまっ暗な水、頭上の三角帆《ラティーン・モイル》は、はち切れんばかりに風をはらんでいる。
「そうだねえ。僕らは、こんなようじゃ当分海上にいるだろうからね」
 事実この三人は、見る島、ゆく島の人たちによって残酷に追われていた。キューネのだれにも分るドイツ訛りと、戦争が終ったか終ったかと聴くような怪しい男には、どの島民も胡乱《うろん》の眼をむけずにはいない。銃を擬せられて、逃げだすときの情なさ。まったく、この三人はかなしい漂泊を続けていたのだ。
 しかし、この扁舟のなかの二人の男女には、たがいに木石でない以上、何事かなければならない。ナエーアは、十二とはいえ早熟な南国ではもう大人であり結婚期である。二人はだんだん、自然の慾求に打ち克てなくなってきたのである。
「私、どこでも島さえ見つければ、一生懸命に働きますわ。あなたの、|ズボン《ラヴァ・ラヴァ》も椋梠毛でつくれますわ。それに、珊瑚礁の烏賊刺しは、サモア女の自慢ですもの」
「僕は、君の不幸にならなけりゃと思うがね」
 キューネは、ふかく海気を吸ってナエーアを見まいとする。しかしその眼は、もう間もなくくるだろう、甘酔に血ばしっている。そこへ、かるい欠伸をして、ハチロウが眼をさました。
「オジチャン、もう日本へ来たのかい」
「まだまだ、坊やがそう、百もおネンネしてからだね」
「じゃ、オジチャンとオネエチャンがお父ちゃんとお母ちゃんになって……、坊やは、唯今って日本へいくんだね」
 そんなことが、ますます二人を近附けてゆくのだ。すると翌朝、サゴ椰子がこんもりと茂った島に着いた。そこは、誰もいない無人島であるが、植物は、野生のヴァラをはじめすこぶる豊富だ。三人は、ホッと重荷を下したような気になった。
「マア、なんて、いいところだろう」
 ナエーアが、踊るような足取りで、水際を飛んであるいている。珊瑚虫が、紺碧の海水のなかで百花の触手をひらいている。そのあいだを、三尺もあるようなナマコがのたくり、半月魚《ハーフ・ムーン》という、ながい鎌鰭のあるうつくしい魚がひらひらと……。そして、森はまた花の拱廊をつらねている。
「僕はこの島を、新日本島《ノイ・ヤパン》ということにした。ハチロウのために、そう呼んでやろうよ」
 それから二人は、なかにハチロウを挾んで森のなかへ入っていった。すると、野生のヴァニラの茂みのなかに埋もれて、いまはボロボロになっている十字架が一つある。ああ、白人の墓だ――と、キューネは、びっくりして駈けよった。風雨にさらされてまっ黒になったその十字架には、からくも次のような墓碑銘が読めるのだ。

 ――R・Kという女。一八八二年にこの島にて死す。夫に死なれ生計の道も尽き、土人の妻となりしがため、名を記さず。
 墓碑には、簡単にそうあったのだ。しかし、みるみるキューネの面が暗くなってゆく。白人の女が暮しようもなくなって土人の妻となった……それを恥じて、死後も名を記さない。それだのに、いま俺とナエーアはどうなってゆこうとしている※[#感嘆符疑問符
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