「太平洋漏水孔」漂流記
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)名鳥獣採集者《コレクター》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)稀獣|矮麟《オカビ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Dabukku_〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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    竜宮から来た孤児

 前作「天母峯」で活躍した折竹孫七の名を、読者諸君はお忘れではないと思う。
 アメリカ自然科学博物館の名鳥獣採集者《コレクター》として、非番《オフ》でも週金五百ドルはもらう至宝的存在だ。その彼が、稀獣|矮麟《オカビ》を追い、麝牛《マズク・オクゼン》をたずね、昼なおくらき大密林の海綿性湿土《スポンジ・ソイル》をふみ、あるいは酷寒水銀をくさらす極氷の高原をゆくうちに、知らず知らず踏破した秘境魔境のかずかず。その、わが折竹の大奇談の秘庫へ、いよいよこれから分け入ってゆくことになるのだ。
「おい、海を話せよ、君も、藻海《サルガッソウ・シー》ぐらいは往ったことがあるだろう」
 とまず私は困らせてやれとばかりに、折竹にこう訊いたのである。
 というのは、海に魔境ありということは未だに聴いてないからだ。絶海の孤島、といえばやはり土が要る。たいていは、大陸の中央か大峻険の奥。密林、氷河、毒瘴気《マイアズマ》の漂う魔の沼沢と――すべてが地上にあって海洋中にはない。ただ、あるといえば藻海くらいだろうが、それも過去における魔境に過ぎず……いまはその怪|馬尾藻《ほんだわら》も汽船の推進器《スクリュウ》が切ってしまう。
 大西洋を、メキシコ湾流がめぐるちょうどまっ唯中、北緯二十度から三十度辺にかけておそろしい藻の海がある。
 これは、紀元前カルタゴの航海者ハノンが発見したのが始め。帆船のころは、無風と環流のためそこを出られなくなり、舵器には馬尾藻《ほんだわら》がぬるぬると絡みついてしまう。そういう、なん世紀前かしれぬボロボロの船、帆柱にもたれる白骨の水夫、それを、死ぬまで見なければならぬ新遭難船の人たち。絶望、発狂、餓死、忍びよる壊血病。むくんだ腐屍の眼球をつつく、海鳥の叫声。じつに、凄惨といおうか生地獄といおうか、聴くだに慄っとするような死の海の光景も、いまは藻海《サルガッソウ・シー》のとおい過去のことになっている。
 では、海に魔境は絶対ないと云えるのか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そういうと、折竹は呆れたような顔をして、
「オイオイ、俺だからいいようなもんの、他人には云うなよ。今どき、藻海《サルガッソウ・シー》なんて古物をもち出すと、君の、魔境小説作家たる資格を疑うものがでてくるからね。だが、じっさい海には魔境といえるものが、少ない。彼処に一つ、此処に一つと……マアそれでも、三つくらいあるだろう」
 全然ないと思われた海洋中の魔境が、折竹の話によれば三つほどあるという。ゆけぬ魔海――それはいったい何処のことだろう。また、陸の未踏地のごとく全然人をうけつけぬ、その海の魔境たる理由? しかも、それがわが大領海「太平洋」中にあるという、折竹の言葉には一驚を喫しないわけには往かない。
「それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島からは、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだという、海の絶対不侵域がある」
「ほう、まだ|未踏の海《マーレ・インコグニタ》なんてこの世にあるのかね。で、名は?」
「それが島々でちがうんで色々あるんだがね。ここでは、いちばんよく穿っているニューギニア土人の呼びかたを使う。|〔Dabukku_〕《ダブックウ》――。つまり『海の水の漏れる穴』という意味だ」
 土人の言葉には、ひじょうに幼稚な表現だが奇想天外なものがある。この“|〔Dabukku_〕《ダブックウ》”などもその一つ。直経百海里にもわたるこの大渦流水域を称して、「海の水の漏れる穴」とはよくぞ呼んだりだ。
 そこは、赤道無風帯のなかでいちばん湿熱がひどいという、いわゆる「|熱霧の環《レジョン・オブ・クラウド・リング》」のなかにある。そしてその渦は、外辺は緩く、中心にゆくほど早く、規模でも、「メールストレームの渦」の百倍くらいはあろう。ましてこれは、鳴門やメールストレームのような小渦の集団
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