ではなく、渺茫数百海里の円をえがく、たった一つの渦。
周縁は、海水が土堤のように盛りあがっている。ことに、地球自転の速力のはげしい赤道に面した側は、まさに海面をぬくこと数メートルの高さ。さながら、大|環礁《アトール》の横たわる心地す――とは、はじめて“|〔Dabukku_〕《ダブックウ》”をみた |De Quiros《デ・クイロス》 の言葉だ。
この、オウストラリア大陸を発見し損なったそそっかしいスペイン人が、“|〔Dabukku_〕《ダブックウ》”を最初みたのが十七世紀のはじめ。しかし彼は、この化物のように盛りあがった水の土堤に、舵をかえして蒼惶と逃げ出した。そしてそこを、雲霧たちこめるおそろしい湿熱の様から、“|Los Islas de Tempeturas《ロス・イスラス・デ・テンペラッス》”と名づけた。すなわち、「颶風の発生域の島々」という意味。
「なるほど」
と、もう私は一、二尺のりだすような亢奮。しかし、いまの説明のなかに判じられないようなものがある。
「その、島々というのはどういう意味だね。“|〔Dabukku_〕《ダブックウ》”のなかには、島があるのか?」
「そうだ、大小合して七、八つはあるらしい。その何百、何十万年かはしらぬが隔絶した島のなかを、君は一番覗きこみたいとは思わないかね」
と、なにやら仄めかし気にニッと笑った折竹の眼は、たしかに私を驚死せしめる態の大奇談の前触。そしてまず、“Dabukku《ダブックウ》”の島々について語りはじめた。
「ニューギニア土人は、その黒点のようにみえる島を穴と見誤った。海水が、ぐるりから中心にかけて、だんだんに低くなってゆく。それを、勾配のゆるやかな大漏斗のように考えた。つまり、その穴から海水が落ちる。そのため、こんな大きな渦巻ができると、いかにも奴等らしい観察が“|〔Dabukku_〕《ダブックウ》”の語原だよ」
「ふうむ、太平洋漏水孔か……」
「そうだ、案外渦の成因はそんなところかもしらんよ。ところで、なぜ『太平洋漏水孔《ダブックウ》』のなかへ踏み入ることができないか。
一九一二年に、当時の独逸ニューギニア会社の探険隊が、『太平洋漏水孔《ダブックウ》』へ入ろうとした。そのとき、はじめて魔海のおそろしさがハッキリと分ったのだ。それは、『太平洋漏水孔』の海面下が一面の暗礁で、小汽艇のようなものでも忽ち覆えってしまう。つまり、縦に突っきろうにも渦流にまかせようにも、重さと抵抗をもつ汽艇のようなものは駄目なんだ。ただ、どうかと思われるのが|桁付き独木舟《アウトリガード・カヌー》だ。
こいつは、目方も軽いし抵抗も少ない。ふわふわ渦にのってゆくうちに、どれかの島へゆけるだろう。と、マアその考えもそこまでは良いんだがね。考えると、それでは行きっきりになってしまう。渦が逆流でもしないかぎり……永遠の竜宮ゆきだよ」
「………」
私は、さっきから折竹が頻繁につかう、竜宮という言葉が気になって堪らない。こいつ、何かどえらいものをきっと隠しているなと、問おうとしたのを折竹が遮って、
「それから、もう一つ『太平洋漏水孔《ダブックウ》』探険の大障害というのが、さっきも云ったひじょうな高湿度だ。なにしろ『太平洋漏水孔』の形がちょうど漏斗だからね。海面の蒸発に※[#「さんずい+(冢−冖)」、第3水準1−86−80]留がおこる。その探険隊が、『|海の潮吹き穴《メーレヌ・ブラーゼロホ》』とそこを名づけたように、濛気赤道太陽をさえぎる大湿熱海だ。
ところで、そのニューギニア会社の探険のとき、実験がおこなわれた。それは、大蚪虫《コックローチ》をいれた箱を『太平洋漏水孔』へ流したのだが、その、空気温度が約摂氏四十五度。ところが、それから十分ばかり経って引きよせてみると、その大蚪虫の体温が空気温度とおなじだ。君、人間が四十五度の体温にどれくらい堪えられるだろうか」
「想像もつかんよ、地球の熱極というのがあれば、『太平洋漏水孔』のことだろう」
「ふむ、ところでだ。ここに、独木舟《カヌー》に乗って入りこんだ、人間がいると仮定しよう。渦は、毎時周縁のあたりが三十カイリの速さ。そして、ぐるぐる巡りながら最初の島までゆくのに、どう見積っても半日は費る。するとそれまでに、その人間の命が保つかどうかということが、まず第一の問題になってくる。僕は、医者じゃないが、受け合い兼ねますといいたいね」
「分ったよ」
私はメモを置いて、落胆したように彼をみた。
「なるほど、人間の生理状態が一変しないかぎり、『太平洋漏水孔』へはゆけないと云うことが、分った。だが、そんな工合で人間がゆけなくてだね、そこに奇談もなにもないものは、聴いても仕様がないよ」
すると、折竹がいきなり童顔をひき締めて、オイと、一喝するように呶鳴った
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