。
「おいおい、話というものはしまいまで聴くもんだ。僕が、何百、何十万年秘められていたかもしれぬ『太平洋漏水孔』の大驚異――それを話そうと思う矢先、早まりやがって……」
「そ、そうか」
「それみろ。とにかく『太平洋漏水孔《ダブックウ》』のなかに何かしらあるらしいことは、君に作家的神経がありゃ、感付かにゃならんところだ。といって、僕が往ったわけじゃない。じつは、ひとりそこへ入り込んで奇蹟的に生還したものがいる。そしてその人物と、僕のあいだには奇縁的な関係がある」
「なんと云うんだ! そして、どこの国のものだ」
「日本人だ。しかも、頑是ない五歳ばかりの男の子だ」
私は、ちょっと、暫くのあいだ物もいえなかった。読者諸君も、その五歳という文字を誤植ではないかと疑うだろう。しかし、五歳はあくまでも五歳。そこに、この「太平洋漏水孔《ダブックウ》」漂流記のもっとも奇異な点があるのだ。では、しばらく私は忠実な筆記者として、折竹の話を皆さんに伝えよう。
「黒人諸島《メラネシア》」浦島
それが、第一次大戦勃発直後の大正三年の秋――。日本海軍が赤道以北の独領諸島を掃蕩しつくしたけれど、まだドイツ東洋艦隊が南太平洋にいるという頃。はやくも、新占領区域を中心に商戦の火蓋をきった、向うみずな一商会があった。それが、折竹の義兄が経営する海南社。のちの恒信社、南洋貿易などの先駆となったものだ。
独艦が出没する南太平洋を縫い、ともかく小帆船ながら新領諸島と、濠洲間の聯絡を絶やさなかったのは偉い。その、水凪丸の二回目の航海、ブリック型、補助機関附きの五百噸ばかりの帆船。それが、雑貨燐鉱などをはち切ればかりに積んで、いま北東貿易風にのり赤道を越えようとしている。
若人のあこがれ、海のロマンチシズムは帆船生活にある。順風に、十度ほど傾いではしる総帆の疾走。波音と、ブロックの軋めきのほかは何もない南海の夜。仰げば、右に左に弧をえがく上檣帆《トゲルンセル》のあいだに、うつくしい南の眼、赤十字星《サザン・クロス》のまたたき。折竹も、珊瑚礁生物の採集というよりも、むしろこうした雰囲気に魅せられて乗っていたのだ。やがて、北東貿易風がいつとはなしに絶え、船は、聴くだに厭な赤道無風帯《ドルドラムス》に入っていった。
「驚いたですよ、船長」
と折竹もさすがに音をあげた。
「この、補助機関の震動がするあいだは地獄というわけですね。まったく、この蒸し暑さときたら死んじまいたいくらいだ。眼がぽっと霞んで来るし、なにも考えられなくなる。だが、あれ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]、アッ、ありゃ何だ」
下桁《ブーム》のしたの天幕《テント》のかげから、折竹が弾かれたように立ちあがった。そとは、文字どおりの熱霧の海だ。波もうねりもなく濃藍の色も褪せ、ただ天地一塊となって押しつぶすような閃めき。と彼に、左舷四、五十|鏈《ケーブル》の辺に異様なものが見えるのだ。環礁《アトール》のようだが色もちがい、広茫水平線をふさぐに拘わらず、一本の椰子もない。
「あれかね、あれは有名な『太平洋漏水孔《ダブックウ》』の渦だよ。環礁《アトール》のように見えるのは、盛りあがった縁だ。とにかく、はいったら最後二度と出られないという、赤道太平洋のおそろしい魔所なんだ」
その時、船首の辺でけたたましい叫びが起った。一人の水夫が、檣梯《リギン》の中途でわれ鐘のような声で呶鳴っている。
「おうい、変なものが見えるぞう。右舷八点だ……鳥が、籠みてえなものを引いてゆくが……見えたかよう」
まもなく、その二羽の鰹鳥が射止められた。引きあげられたのは葡萄蔓の籠で、なかを覗いた男がアッといって飛び退いた。裸体の、愛らしい五つばかりの男の子が、呼吸《いき》もかすかに昏々とねむっている。なんだ、夢ではないのか。この、ちかくに島とてない赤道下の海を、鳥に引かれながら漂う頑是ない男の子。
と、しばらく全員は酔ったような眼で、暑さも忘れ、じっとその子をながめている。と間もなく、その子の背に手紙が結いつけられてあるのが、見つかった。船長が手にとったが、すぐ折竹にわたし、
「君、ドイツ語のようだね」
「そうです、読みましょうか。最初に、この子の仮りの父となって暮すこと一月。いま『太平洋漏水孔《ダブックウ》』中にある独逸人キューネより――とあります」
太平洋漏水孔《ダブックウ》――たった一字だががんと殴られた感じだ。しかも、みればこの子は日本人のようだし、どうして、あの魔海に入りどうして抜けでたのか。しばらく全員は阿呆のように、じりじりと照る烈日のしたで動かない。
やがて、その子は手当をされ船室で寝かされた。折竹は、いつまでも醒めない悪夢のあとのような気持、フラフラわれともなく檣舷《リギン》へのぼって、いま左舷に過ぎよ
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