。ナエーアは、十二とはいえ早熟な南国ではもう大人であり結婚期である。二人はだんだん、自然の慾求に打ち克てなくなってきたのである。
「私、どこでも島さえ見つければ、一生懸命に働きますわ。あなたの、|ズボン《ラヴァ・ラヴァ》も椋梠毛でつくれますわ。それに、珊瑚礁の烏賊刺しは、サモア女の自慢ですもの」
「僕は、君の不幸にならなけりゃと思うがね」
 キューネは、ふかく海気を吸ってナエーアを見まいとする。しかしその眼は、もう間もなくくるだろう、甘酔に血ばしっている。そこへ、かるい欠伸をして、ハチロウが眼をさました。
「オジチャン、もう日本へ来たのかい」
「まだまだ、坊やがそう、百もおネンネしてからだね」
「じゃ、オジチャンとオネエチャンがお父ちゃんとお母ちゃんになって……、坊やは、唯今って日本へいくんだね」
 そんなことが、ますます二人を近附けてゆくのだ。すると翌朝、サゴ椰子がこんもりと茂った島に着いた。そこは、誰もいない無人島であるが、植物は、野生のヴァラをはじめすこぶる豊富だ。三人は、ホッと重荷を下したような気になった。
「マア、なんて、いいところだろう」
 ナエーアが、踊るような足取りで、水際を飛んであるいている。珊瑚虫が、紺碧の海水のなかで百花の触手をひらいている。そのあいだを、三尺もあるようなナマコがのたくり、半月魚《ハーフ・ムーン》という、ながい鎌鰭のあるうつくしい魚がひらひらと……。そして、森はまた花の拱廊をつらねている。
「僕はこの島を、新日本島《ノイ・ヤパン》ということにした。ハチロウのために、そう呼んでやろうよ」
 それから二人は、なかにハチロウを挾んで森のなかへ入っていった。すると、野生のヴァニラの茂みのなかに埋もれて、いまはボロボロになっている十字架が一つある。ああ、白人の墓だ――と、キューネは、びっくりして駈けよった。風雨にさらされてまっ黒になったその十字架には、からくも次のような墓碑銘が読めるのだ。

 ――R・Kという女。一八八二年にこの島にて死す。夫に死なれ生計の道も尽き、土人の妻となりしがため、名を記さず。
 墓碑には、簡単にそうあったのだ。しかし、みるみるキューネの面が暗くなってゆく。白人の女が暮しようもなくなって土人の妻となった……それを恥じて、死後も名を記さない。それだのに、いま俺とナエーアはどうなってゆこうとしている※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 と急に、嫌悪の情がむらむらっと起ってきた。キューネにも、やはりどこかにある白人の優越感が……このたった一度でナエーアの顔を、見るも厭なようになってしまったのだ。彼は、幾度も詰まりながら、ナエーアに嘘をついた。
「ナエーア、やはりここも不可ない島なんだ。疫病がある。それで、ここの島には誰も住むものがないと云うんだ」
「あァあァせっかく見付けたのに、不可ないんでしょうか」
 ナエーアはキューネの気持を知らず、がっかりして云った。そしてまた、独木舟の漂流がはじまったのだ。
 キューネはそれ以来、見ちがえるような人間になった。ハチロウには、以前とかわらぬ親しさを見せるが、ナエーアにはほとんど物をいわない。そして、水また水の絶海の旅が続いた。
 朝は、うすら青くすがすがしい海水が、昼には、ニスを流したような毒々しい藍色になる。そして夕には、水平線を焼く火焔の大噴射。そういう、まい日まい日繰りかえされる同じような風物に、だんだんキューネに募ってくるのはおそろしい虚無。すると、ちょうどその夜あたりから、それまで吹いていた南東貿易風が弱まってきた。
「どうしたんですの。この頃は星も見ないんですね」
 とハラハラしたような声でナエーアがいう。
「見ても、見なくても同じことだからね。どうせ、どこへ流れつこうが、末は分っているよ」
 それから、数日間はくもって、暗黒の夜が続いた。風は絶え、三角帆《ラティーン・セイル》もだらりと垂れている。海も空気もネットリとなって、湯気のようなガス、ねむったような蜒り。キューネは、もうどうなろうが儘とばかりに、この四、五日は方角もみない。
 とある夜、風もないのに急に波だってきた。
「どうしたんでしょう。風もないのに、こんなに荒れてきましたわ」
 ナエーアは、帆を下してハチロウの上にかけた。
 波は、低く窪みひろがり泡だって、押しよせてくる。しかし、空には突風もない。ただ水面には触れずとおく上空をゆくのか、ごうっという颶風のような音がする。ところが、空が白々となってきた暁がた近いころに、キューネがけたたましい叫び声をあげた。
「ああ、なんというところへ来たんだ。ナエーア、こりゃ大変な渦だよ。ああ、太平洋漏水孔《ダブックウ》!」
「だから、だから、云わないこっちゃないんですわ」
 ナエーアはただハチロウを抱きながら、オロオロ声でいうだけ
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