おそらくこの娘は必死に逃走をはかったろう。間もなく、かの女が此処へくるについてのかなしい物語をしはじめた。娘は、名を“Nae−a《ナエーア》”という。
「私は、ながらくサモアの国王をやっている“Tamase《タマセ》”の孫です。ところが、どういう訳でしょうか、ドイツ領事が、タマセの王系を絶やそうとするのです。祖父のタマセは、今から三十年ほどまえ伯林へ送られました。また、それから転々として亜弗利加ギニアの、おそろしい土地にも送られたことがあります。
 ですけど、どうしてタマセの王系がそんなに邪魔なんでしょう。父はいま、|サモア酒《カヴァ》の中毒で廃人も同様。兄も、父に見ならって盛んに|サモア酒《カヴァ》をのんでいます。それも、みんなドイツ領事の薦めることなんですわ。私も、幼な心に見過せなくなりました。まだ去年といえば十一でしたけど、父と兄を諫めたことがあります。するとそれが、なにかドイツ領事に危険なものに見えたのでしょうか。私を、こっそり捕まえて貿易船に抛りこみ、ここの岩礁のうえで、ポンと放したのです」
 この、天人ともに許さぬ白人の暴戻は、キューネをさえ責めるように衝いてくる。まったく、ナエーアが啜り泣きながらいうように、サモアへ帰れば殺されるだろうし、といって、此処に一生いるくらいなら死んだほうが増しだという。まして、この“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”は、けっして安全な地ではないのだ。
「私、まだここには一年しかいませんけど、時々、おそろしい高潮が襲ってくるのです。その時は、木へのぼって、ぶるぶる顫えていなければなりません。そしてその潮は、ここの果実《このみ》という果実《このみ》をすっかり持っていってしまうのです。ねえ坊や、これから坊やとオジチャンとオネエチャンと三人で、どこか安楽な島へでもゆこうじゃないの」
 そうして間もなく、この“Nord−Malekula《ノルド・マレクラ》”を三人が出ていった。果実や泥亀《スッポン》の乾肉をしこたまこしらえて、また、独木舟《プラウー》にのり大洋中にでたのだ。しかし、今度は目的地もない。ただ、絶海をめぐって、孤島をたずねよう。そしてそこが食物の豊富な常春島《エリシウム》であれば……。


    太平洋漏水孔《ダブックウ》の招き

「オジチャン、これで坊やたちは、日本へいくんだね」
 ハチロウは、外洋へでると大悦びだったが、そんなことを聴くと、キューネは鼻の奥がじいんと滲みるような思い、自分はドイツ、ナエーアはサモアへ……。いずれも帰心矢のごとしと云いながら、帰れない身だ。よくよく、おなじ運命のものがめぐり合わせたもんだと、ますますこんなことから結ばれてゆく三人。
 独木舟《プラウー》、いま南東貿易風圏内にある。この|雨桁附き独木舟《アウト・リッガード・カヌー》にはひじょうな耐波性があって、むかしは、ハワイ、タヒチ島間六千キロを、定時にこの扁舟が突破していたといわれる。
「なんだか、赤道《ピコ・オウ・ワケヤ》に近いようですわね」
 とビスマルク諸島の北端を出てから三日目の午、ナエーアが、しばらく手をかざしながら水平線を見ていたが、そういった。
「どうして、分るね」
「ホラ、蒼黒い筋が水平線にあるでしょう。あれが、凪がちかい証拠だというんです。じきに、|北の星《ホコ・パア》が見えるかもしれませんわ」
 それまでキューネは、ただ羅針盤《カンバス》だけでこの舟を進めていた。いま針路は真東にゆき、エリス諸島辺へむかっている。それだのに、赤道ちかいとは何事であろう。事によったら、皇后《カイゼリン》アフガスタ川の叢林中につないで置いたあいだ、なにか羅針盤《カンバス》が狂うような原因があったのではないか。そこで、念のため軽便天測具《カラバッシュ》を持ちだして、その夜、星を測ってみたのだ。なるほど、セントウルスの二つの輝星の位置がちがう。
 かれは、軽便天測具を置くとナエーアの手をにぎった。はじめて土人娘のカンの正しさを知ったのだ。
「私たちが、もしこの舟のうえに一生いるようになったら……」
 ナエーアがある夜キューネにこんなことを云いだした。星影をちりばめたまっ暗な水、頭上の三角帆《ラティーン・モイル》は、はち切れんばかりに風をはらんでいる。
「そうだねえ。僕らは、こんなようじゃ当分海上にいるだろうからね」
 事実この三人は、見る島、ゆく島の人たちによって残酷に追われていた。キューネのだれにも分るドイツ訛りと、戦争が終ったか終ったかと聴くような怪しい男には、どの島民も胡乱《うろん》の眼をむけずにはいない。銃を擬せられて、逃げだすときの情なさ。まったく、この三人はかなしい漂泊を続けていたのだ。
 しかし、この扁舟のなかの二人の男女には、たがいに木石でない以上、何事かなければならない
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