佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)脅《おど》かし

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+夷」、第3水準1−94−41]
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  上

 私は、鯰の屈託のない顔を見ると、まことに心がのんびりとするのである。私もあんな顔の持ち主に生まれてくればよかったな、と思うくらいである。
 小さな丸い眼、大きな口、下顎の出た唇、左右に長く伸びた細い髭。あの髭は人間として真似ようもないが、あの顔全体から受ける印象は聖賢の風格を持っている。私の古い友人に中井川浩という茨城県選出の代議士があった。この人物の顔は、実に鯰によく似ている。下顎が出て、口の大きいところ、眼の可愛らしい出来具合。それが彼の顔が赤茶でなく、もし泥青色であったら、先祖は鯰であったかも知れぬと思うほどである。そして中井川は気持ちが素直に、ものにこだわりのない大きな風を持っていた。
 日本では鮎と書いてあゆ[#「あゆ」に傍点]と読ませるのであるが、中国では鮎という文字は、なまずを指すのである。してみると、鯰という字は日本でこしらえたのかも知れない。なお中国では、※[#「魚+夷」、第3水準1−94−41]魚とも書く。
 大和本草には、昔から日本には箱根山から東北には鯰がいないといってある。これは、箱根から西には化け物がいないというのと、好一対をなすものだが、東北地方には鯰がいなかったというのはあてにはならない。ところが魚譜によると、享保十四年九月一日、武州井之頭の池に洪水が起こり、それが氾濫して江戸へ流れ込み、あたりに満ちて大河のようなありさまとなり、人家が流れ人馬の溺死した数は夥しい。
 それからのち、この辺にはじめて鯰を見るようになったというのであるが、享保といえば今から僅か二百二、三十年の昔である。そのころ、鯰が箱根山を越えて関東へやってきたとは思われぬ。大昔から東北地方にも棲んでいたのであろう。
 日本内地では、一尾で一貫五、六百匁に育ったのが、一番大物であろうと思う。ところが、満洲には頗る大物がいる。殊に、満蒙国境のノモンハンに近いホロンバイルの達※[#「口+獺のつくり」、183−9]湖には一尾で十貫目、六、七尺の奴が棲んでいるのであるから驚く。こんなのを鈎にかければ、人間が水のなかへ引き込まれて竜宮行となることは請合いだ。
 わが、琵琶湖にも昔は頗る大物がいたそうである。この大物は、夜になると岡へ出てきて猫を捕らえて食ったという。
 中国の鯰は、頭は水中に置き、尻尾を岡へ出して置く。そこへ野鼠がやってきて、結構なご馳走であるとばかりその尻尾へ噛みつくと、その途端に鯰は尾に跳躍を起こして鼠を水中に引っ張り込み、一口にあんぐりと鼠を頂戴するという。

  下

 鯰は妖怪変化の術を心得ていて、大入道に化けた話は、そちこちにある。中国の鯰は孔子さまを脅《おど》かしに行った。捜神記[#「捜神記」は底本では「挿神記」]という化け物のことばかり書いた古い中国の本に、孔子さまがある夜一人で室に引き籠っていると、一人の異様な風体の男が訪ねてきた。見ると身の丈九尺に余る大男で高い冠をかむっている。そして「孔子、貴公なにしちょるか」といって、大声であたりへどなりまわした。そこへ、孔子の弟子の子路がやってきて、師の身辺を脅かすとは怪しからん奴、とばかりその大男を庭へ引き摺りだし、組打ちをはじめ、とうとう子路が勝って大地へ組み伏せ、高手小手に縛りあげてみたところ、こはそもいかにこれ大鰓魚也とあった。つまり、大鯰であったのである。
 鯰の化け方の道化ているところは、陸の狸公に似ているではないか。
 日本の鯰は、鼻下に二本髭を蓄えているだけであるけれど、北満洲の齋々哈爾《ちちはる》の北を流れる嫩江には、三本髭の鯰がいる。一本は顎の下に長く生えているのである。三本ひげを蓄えた顔は、中国の大人《たいじん》の風貌《ふうぼう》によく似ている。そして、顔の造作からだの格好に至るまで、日本の鯰に寸分違わぬのであるけれど、実はこれは鯰ではないのである。鱈であるのだ。太古、海中であった北満地方が地殻の変動で岡になったとき、海水と共に外洋へ逃げるのを忘れた鱈は、ついに山の渓流に取り遺されて、北満の淡水に陸封されることになったのである。顔や、からだが同じでも、鱈はやはり鱈で、北海道や樺太の海でとれる鱈と同じに、北満の鱈も鯰に化けたとはいえ、三本髭のまま、先祖の昔を偲んでいる。
 この鯰鱈は、蒲鉾に作ると素敵においしい。私も一昨年、齋々哈爾へ旅したときこの蒲鉾をご馳走になったが、最初はなにを材料にしたものか知れぬほど、舌鼓をうったのである。日本でも、昔から鯰を蒲
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