ると答えた。そうか、だがわしは何処が目あてとも知れぬ旅僧で、草の衾《ふすま》、石の枕を宿としているのであるから、折角の頼みではあるけれど、そなたを弟子にして伴い歩くことはでき申さぬ。と因果を含めた。
 しかし、少年の僧は、いつかな正通和尚の言葉をきかない。たって、弟子にしてくだされ、仏の慈悲と思し召して私の念願を叶えてくだされと、袂に縋るようにするので、和尚はこれに負けてしまったのである。
 それから、老僧は若僧を伴って、あの里この里と歩いた末、上州館林の地へ辿りついた。老僧は、館林の地がひどく気に入ったらしい。
 この地に、一寺を建立したいと守鶴にいったのである。ところが守鶴はそれに答えて、いえ館林よりも、もっと景勝の地が、ここから余り遠くないところにありますから、そこになすっては如何ですといって、正通和尚の先に立って歩いた。
 和尚は、子供でありながら妙なことをいうと思いながら歩いて行くと、いま茂林寺のある堀江の地へ入ったのである。見ると、なるほど館林よりも景勝の地だ。
 艮《うしとら》の方角には池があり、あたり樹林が茂って、寺を建て永く御《み》仏に仕えるには、まことに恰好な環境である。近村の人々の協力により間もなくそこへ寺が建った。守鶴は、和尚から番僧の役目を仰せつかったのである。
 工事が全く成ったある春の日に、和尚は近郷近在の善男善女を招いて落成祝いを行なった。寺振舞である。あっちからも、こっちからも寺の建立を祝って、多くの人々が集まった。春の寺庭は、晴れやかに賑わう。
 守鶴の、この日の役目は、お茶番であった。茶釜の直ぐ傍らに座って、あまたの寺詣の人々に茶を接待するのであるけれど、十人や二十人のことなら、大して湯水が要る筈はない。
 ところが、その日はぞろぞろと、幾百人とも知れない人の数が、後から後から続いてくるには、随分沢山の水が入用のわけだ。でも、守鶴は盛んに茶釜から湯を汲みだして、人々に接待するが、その茶釜に水をたして行かないのである。
 参詣の人々は、それに気づかなかったが、正面に座していて、守鶴の振舞を静かにながめていた正通和尚は、
 南無幽霊――南無阿弥陀仏
 と、ひそかに呪念したのである。その間も、若い僧は茶釜から尽きぬ湯を汲みだしていた。老僧は、知らぬ振りをしていた。
 寺振舞が済んでから幾日か過ぎ、もう夏となっていた。守鶴は、いろいろの用事が終わったので自分の室へ引き退り、昼寝をはじめたのである。ところが、急に用事ができたので正通和尚は庫裏《くり》から、守鶴の室へ向かって、幾度か呼んだけれど、返辞がない。
 そこで和尚は、守鶴の室へ行って、襖を開いてみると、驚いたことに大狸が室の真ん中で、高鼾で大の字なりに寝ていた。
 ――南無 幽霊――
 和尚の心に、合点がいった。和尚は、守鶴に気づかれぬように、静かに襖を閉めて庫裏へ戻ったのである。
 守鶴は、浅ましき姿を正通に見られたのを覚った。もう、わが正体を明らかにした以上は、この寺に務めてはおられぬ。その日夕方、守鶴は方丈で読経が済んだ後の和尚の前に座し、実はわたしは榛名山麓の横穴に、歳古く棲んでいる狸である。今日、はしたなくもわたしの粗忽《そこつ》から、あられもなき態をお目にかけ、まことに相済まぬ仕儀であった。かくなっては、高僧と畜生とは相供に住まわれません。お暇を戴き申す。
 それでも構わぬと、和尚は引きとめたが、守鶴はその場から、いずこともなく姿を消したのである。

  五

 守鶴が、尽きぬ湯を汲み出した茶釜が、現在の茂林寺の分福茶釜であるという。
 狸となって守鶴が茂林寺を立ち退いた後も、正通和尚は守鶴少年の遺品として愛していた。庫裏の大火鉢にかけて、毎朝毎夕そこから湯を汲み出しては急須に入れた。
 ある真昼、和尚は庫裏で書見をしていた。そして、ふと傍らの茶釜を見ると、茶釜の胴の一方から、ふっくらとして毛の厚い狸の尻っ尾が出た。ついで、その反対側から眼の下を黄色に隈取った狸の顔が出た。
 和尚は微笑《ほほえ》んだ。
 それから、前肢が出で後肢が出た。四肢が揃うと、狸は大火鉢の上からひょいと畳の上へ飛び降りた。後肢で立って、前肢で茶釜の腹を叩きながら踊りはじめたのである。
 正通和尚は、また微笑んだ。
 けれど、老僧は守鶴が昼寝をしたために、老狸の正体を現わしたこと、茶釜に頭と尾、前肢と後肢が生えて踊りだしたことは、決して誰にも語らなかったが、老僧は茶釜が踊り出してからは、これを傍らに置いて愛用する心を続けることはできなかった。
 館林の町から古道具屋を呼んできて、只と同じような値で茶釜を払い下げてやった。古道具屋が見ると、甚だ金性がよろしい。そして、値は只も同じようである。古道具屋は喜んで家へ持ち帰ったのである。
 ところでその夜半、古道具屋は店の方が、ひどく騒々しいので眼をさまし、障子の穴から覗いてみると、今日茂林寺から買ってきた茶釜に頭、肢、尻っ尾が生えて、腹のふくれた大きな狸となり、それが店にならべたいろいろの古道具を踏み荒らしながら、盛んに踊っているのであった。
 これは、いかん。
 古道具屋の亭主は、びっくりした。これは、わが店へならべて置くべき品ではないと考えたのである。その翌日、早く起きて知り合いの古道具屋へこの茶釜を提げて行って、相当儲けて売った。
 それを買った古道具屋も、その夜半、狸に化けた茶釜に驚かされた。そこでまたその道具屋は次の道具屋へ売ったのである。
 こうして、茶釜は次から次へ、転々として売られて行ったのであるが、至る処で奇蹟を現わして、人々の胆を潰したのである。結局、これに関係した古道具屋連が相集まり、これは公開して世間の人に、古今はじめての奇蹟を見せてやるべきであるという相談がまとまり、見世物小屋を開いて、茶釜の狸踊りをご覧に入れたところ、大評判となって大入り満員。
 四方から遠い道を遠しとせず、見物人が押すな押すなと集まったため、僅かに数日間で道具屋連中は大儲けをした。その福を、皆々で分け合ったから、分福茶釜と名づけたという。
 そこで道具屋連中は、興業が終わると顔を揃えて分福茶釜を携えて茂林寺へ行き、今回の次第とお礼を述べて、末永く茶釜の加護を正通和尚に頼んだのである。これがいま尚、茂林寺に伝わっているそうだ。

  六

 赤城山麓の、厩橋城も狸の巣であった。厩橋というのは、前橋の旧名である。
 厩橋城は、慶長六年酒井重忠が、武州川越から転封された後、忠世、忠行、忠清、忠挙、忠相、親愛、親本の六世をへて、忠恭に至るまで百五十年間の居城であったが、そのいく度かの、利根川の洪水のために、西方の城壘が崩壊を重ねたのであった。
 元来、厩橋城は酒井家が移ってから、利根の激流に悩まされたわけではない。天正十年織田信長の重臣瀧川一益が居城した頃から、毎年出水期になると、利根の流れのために城が盛んに崩されたらしい。
 現在、利根川は前橋市の西側を流れているけれど、今から百年ばかり前までは、前橋と赤城山麓との間の一本、前橋の西側群馬郡との間を流れる一本、都合二本に分かれて流れていたのである。それが、五、六月頃から十月頃までの出水期には、激流が荒れ狂って、田地田畑からお城まで洗い去っていた。
 かくして、寛延二年正月酒井忠恭は播州へ転封となり、その後へ松平大和守朝矩が来たり、この厩橋城へ入ったのである。その頃は、厩橋城廓の崩潰が甚だしい最中で、殿様の朝矩は危険で居堪らなくなり、本丸から三の丸へ引っ越さねばならぬありさまであったという。
 だが利根の激流は年々歳々、勢いを増してきて、城壁は崩れて底止《ていし》するところを知らない。ついに、三の丸も危なくなった。
 そこで、朝矩は在城僅かに十九年にして明和五年三月武州川越城へ移り、厩橋には陣屋を置いて分領としたのである。関東の四平城の一つとして名高かった厩橋城も、松平氏が川越へ避難してから廃城となり、その後十九年間、城内は荒れるに任せ、昔の偉観なく廃墟の姿となったのである。
 従って、厩橋の城下もさびれてしまった。多くの藩士はすべて川越へ去ったので、市中の商人はひどく衰え、町家は年と共に疲弊して町のなかへ田や畑が現われるという状態となった。市中へ、一つ目小僧や、大入道が散歩にでかけて、人々に腰を抜かせたのもこの頃だ。
 再築の工事がはじまったのは、明治維新から三、四年前の、元治元年五月十三日で、竣工したのが、慶応三年一月二日であるから、城が出来あがると間もなく、僅か一年ばかりで廃藩となったわけである。
 大きな城が九十九年も少しの手入れもすることなく、棄て置かれては、荒れに荒れて昼なお暗い叢林や身丈を隠す草原ができて、相馬の古御所を彷彿させるに充分であったのであろう。
 そんな次第で、荒れた城内は狸と狐と雉子の巣となって、これが競って厩橋市中へ化けて出た。廃藩置県になってからは、城の裏側の利根の急流に臨んだ崖の上へは、県営の牢屋ができて、そこは明治初年に白銀屋文七が、遊人度胸を揮ったところであるが、その付近一帯が、また薄気味悪い場所となったのである。
 あたり一面、葭《よし》と葦《あし》が生えて足の踏み入れようもない。そこへ、どこから来たか大蛇が移り住んだ。私の父は少年の頃、村の友だちと共に、その近くへ草刈りに行ったが、まことに恐ろしい場所であったと、私に語ったのを記憶している。
 父の友人の一人は、その牢屋の近くで、大蛇に出逢い、毒っ気を吹きかけられ、家へはせ帰ったけれど、毒が全身にまわり、ついに死んでしまったという話だ。

  七

 厩橋城は、松平家が留守にした幕末の九十九年間に、はじめて狸がわが住まいとして、入り込んできたのではないらしい。その二、三百年前に、城の狸が北条勢や武田勢を、向こうにまわして戦っている。
『石倉記』によると、永禄十卯十年、上杉謙信は上州厩橋城に足を止めて、関東平定のことに軍略めぐらしていた。そこへ北条氏康が攻めてきた。
 氏康の軍勢は氏政従臣松田尾張入道、同左馬助、大道寺駿河守、遠山豊前守、波賀伊像守、山角上野介、福島伊賀守、山角紀伊守、依田大膳亮、南條山城守など三万余騎。
 これに、加勢として武田信玄が出馬してきた。信玄の率いる勢は馬場美濃守、内藤修理亮、土屋右衛門尉、横山備中守、金丸伊賀守ら二万余騎である。両旗の軍勢合わせて五万六千は、大旗小旗や、家々の馬印、思い思いの甲冑を、朝陽に輝かして押し寄せた。
 同年十月八日から厩橋城を打ち囲み、追手搦手から揉み合わせ、攻め轟かすこと雷霆《らいてい》もこれを避けるであろうという状況である。
 血は、城のお壕《ほり》に溢れ、屍は山と積む激戦を演じたけれど、勝敗は遂に決しない。そこで、寄せ手の方では城を焼き払う方略を立て、毎夜城下の街へ火を放して気勢をあげたのである。
 ある夜、城下の街からすばらしい火の手があがった。と、同時に寄せ手の軍勢は、鬨《とき》の声をあげ、城門も吹っ飛べとばかり、何万かが束になって押し寄せてきた。城兵は、これを迎えてなにかと必死になって戦ったけれど、如何とも支え得られそうもない。
 城門を押し倒して、あわや城内へ北条勢が押し込もうと見える危機一髪のとき、不思議なり城の一角から大軍勢が押し出し、手に手に松火を翳《かざ》して、北条勢の鬨の声よりも、さらに大きな鬨の声をつくって寄せ手のなかへ躍り込み、敵を無二無三に斬りまくったのである。
 城兵も、これがために勢いを盛り返して、奮戦したので、さしもの北条、武田合同軍も、ついに敗走してしまったのである。これに乗じて城兵は、城外へ押し出して敵を追跡し、これを殲滅しようとしたけれど、伏兵の虞《おそ》れありとなし、謙信はこれを制止した。
 だが、思いがけない軍勢が、味方を救ったことについて、城内の幹部も兵卒も、甚だ不思議としたけれど、その謎は解けなかった。戦闘が終わって、城内の石垣の上や、門の扉に明るい朝暾《ちょうとん》が当たりはじめたころ、将兵が斬り合いの激しかった場所へ行ってみると、そこにもここにも獣の毛がちらばって
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