設、井戸を新しく掘るなど、いろいろ準備に忙しい。
榛名山の南麓は近年、相馬ヶ原の演習場や予備士官学校などができて、あたりに硝煙の臭いが強く、殊に養蚕の発達から箕輪町付近の山林は開墾されて、一望遮るもののない桑畑となったけれど、その辺は有名な真影流の開祖、塚原卜伝の師、つまり剣道の神さまと称される上泉伊勢守が城代として住まった箕輪城の趾であったから、私の少年のころまでは狐、狸、※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]、雉子、山鳥などというのは、動物園か養鶏場などにも棲んでいた。
ところで、箕輪町では箕輪城趾の近くへ、受け入れ学童の合宿場を建て、井戸掘人夫を入れて盛んに工事を進めて行った。この地方は、土壌が深い傾斜であるから、なかなか水が沸いてこない。
第一日は、一丈ばかり探ったところで日が暮れたから、人夫らは工事を中止したのである。二日目は、暁暗の頃から人夫らは工事場へやってきた。
そして、しばらく榾火《ほたび》を焚いて一服すっているうちに、東が明るくなってきたところが、人夫らが掘り掛けの井戸を覗いていると、薄暗い底の方へ、なにか黒いものが動いているではないか。
大騒ぎとなって、二、三人の人が梯子をかけて井戸の底へ降り行き、黒い犬のような動物を押さえつけて見ると、なんとこれは大きな狸である。
首と四ッ肢を縄で括《くく》りつけ、その日は一日、樹の又へ縛りつけて置いて、その夜工事場の人員全部が集まって、大鍋でたぬき汁をこしらえ、濁り酒で腹鼓をうった。
こんな次第で、文明開化の今日でも、榛名山麓へは、狸が時々散歩に出てきて、失敗を演ずるのである。
四
分福茶釜の出身地も、榛名山麓である。
上州館林在の茂林寺に、この分福茶釜が鎮座ましますのであるが、詳しくいうと上州邑楽郡六郷村字堀江青龍山茂林寺であって、開祖は正通和尚であるという。正通和尚の出身地は分からぬ。
正通和尚は諸国行脚の途次、上州へ入り榛名山麓の村々に布施を乞うて歩いたが、ある日の夕ぐれ、湯の上村から伊香保温泉の方へ向かっていた。
すると、路傍の樹かげの石に、僧形の少年が憩うていたのである。小さい僧は、正通和尚を見ると、立ち上がって丁寧に挨拶してから、拙僧を弟子にして、どこかへ連れて行ってくだされ、と頼むのである。
そこで和尚はそなたは何という僧名であるかと問うと、守鶴であると答えた。そうか、だがわしは何処が目あてとも知れぬ旅僧で、草の衾《ふすま》、石の枕を宿としているのであるから、折角の頼みではあるけれど、そなたを弟子にして伴い歩くことはでき申さぬ。と因果を含めた。
しかし、少年の僧は、いつかな正通和尚の言葉をきかない。たって、弟子にしてくだされ、仏の慈悲と思し召して私の念願を叶えてくだされと、袂に縋るようにするので、和尚はこれに負けてしまったのである。
それから、老僧は若僧を伴って、あの里この里と歩いた末、上州館林の地へ辿りついた。老僧は、館林の地がひどく気に入ったらしい。
この地に、一寺を建立したいと守鶴にいったのである。ところが守鶴はそれに答えて、いえ館林よりも、もっと景勝の地が、ここから余り遠くないところにありますから、そこになすっては如何ですといって、正通和尚の先に立って歩いた。
和尚は、子供でありながら妙なことをいうと思いながら歩いて行くと、いま茂林寺のある堀江の地へ入ったのである。見ると、なるほど館林よりも景勝の地だ。
艮《うしとら》の方角には池があり、あたり樹林が茂って、寺を建て永く御《み》仏に仕えるには、まことに恰好な環境である。近村の人々の協力により間もなくそこへ寺が建った。守鶴は、和尚から番僧の役目を仰せつかったのである。
工事が全く成ったある春の日に、和尚は近郷近在の善男善女を招いて落成祝いを行なった。寺振舞である。あっちからも、こっちからも寺の建立を祝って、多くの人々が集まった。春の寺庭は、晴れやかに賑わう。
守鶴の、この日の役目は、お茶番であった。茶釜の直ぐ傍らに座って、あまたの寺詣の人々に茶を接待するのであるけれど、十人や二十人のことなら、大して湯水が要る筈はない。
ところが、その日はぞろぞろと、幾百人とも知れない人の数が、後から後から続いてくるには、随分沢山の水が入用のわけだ。でも、守鶴は盛んに茶釜から湯を汲みだして、人々に接待するが、その茶釜に水をたして行かないのである。
参詣の人々は、それに気づかなかったが、正面に座していて、守鶴の振舞を静かにながめていた正通和尚は、
南無幽霊――南無阿弥陀仏
と、ひそかに呪念したのである。その間も、若い僧は茶釜から尽きぬ湯を汲みだしていた。老僧は、知らぬ振りをしていた。
寺振舞が済んでから幾日か過ぎ、もう夏となっていた。守鶴は、いろいろの
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