さて、わが老妻は村上町から渡来した狸の肉を細かく刻み、これを鍋の水に入れて二、三時間|沸《たぎ》らせ、やわらかくなったところへ、そぎ牛蒡《ごぼう》、下仁田|葱《ねぎ》、焼豆腐を加えて、味噌を落としたのである。そして、舌をやくほど熱いところを椀に盛り、七味を加えて味わったところ、素晴らしくおいしい。さらに、奥利根沼田から贈って貰った醇酒で小盃を傾け、わが舌に吟味を問えば、なんとも答えず、ただ舌根を痙攣させるのみ。
まことに、久し振りで狸汁の珍味に酔うたのである。
月の輪熊の方は、その翌日とろ火にかけて、小半日ばかり湯煮《ゆに》して、やわらかに煮あげ、それを里芋、牛蒡、焼豆腐と共に旨煮にこしらえて賞味したところ、山谷の匂い口中に漂って、風雅の趣を噛みしめた。
総じて獣肉料理には、牛肉にも豚肉にも猪肉にも、牛蒡の味が内助の功を示すものだが、土の香の強い狸や熊には、殊に牛蒡の持つあの特有の香が、肉の味を上品にする役目は、大したものであると思う。
数年前、報知新聞社から北海道へ熊狩隊を派遣したことがある。そのとき撃ち取った羆を友人数名と共に、小石川富坂の富士菜館へ持ち込み、南支の広州からきた料理人の手にかけて、十数種類の支那料理にこしらえ、さまざまに試食したことがあったけれど、その折りのおいしさもさることながら、老妻の手にかけた月の輪熊の醤《しょう》は格別である。
月の輪熊は、日本特有の種類である。本州の深山に棲んでいて体は肥満し、体の長さは二メートル近くにまで育つのがある。尾は短く、前肢も後肢も短い。そして、太い。五本の指にいずれも黒い長い爪を持っていて、それがなかなか有力だ。毛色は真っ黒で、胸に月輪形の大きな白斑を有している。巧みに樹上によぢのぼることができるけれど、ほかの獣類のように跳躍する術を知らないのは妙だ。
食いものは雑食性で、動物でも植物でも食う。冬になると自分で掘るか、または自然にできた崖下などの穴に入って冬眠し、毎年五月頃子を産むのである。秋、落葉の頃子供をつれて餌漁りに出た熊は、人間を襲うことがあるから、ご用心。
先年、私は渓流魚釣りにでかけて、奥利根楢俣沢の奥と浅間高原六里ヶ原の赤川の水源近くで、野性の熊に出っくわし、胆を潰して命からがら逃げたことがある。楢俣沢の奴は、子供を連れて渓流の沢蟹を掘って食べているところを、二、三十間離れた崖路の上から望んだのであったが、日ごろ子連れの熊は危ないと聞かされていたから、老生ほんとうに腰を抜かさんばかりである。
六里ヶ原で、めぐり会ったのは、五月上旬の、まだ枯芒のままの枯野の中で、真っ黒い山のおじさんと真正面にぶつかったのである。その距離、僅かに数間。共に、だしぬけに正面衝突したのであるから、熊も人間も驚くの驚かないの、両者全くぶったまげた。熊は私を発見すると、急角度に回れ右して枯野の中を枯林めざして走りだしたのである。
私はその場合、その場で腰を抜かしてしまったのでは逃げられないから、腰の蝶番《ちょうつがい》だけを確《しっか》りさせて置いて、逃げた逃げた。
群馬県吾妻郡応桑村北軽井沢の一匡村近くまで一里ばかりの間、どこの叢林、どこの野原を走ったのであるか夢中で走って、われに返った。
そこで、漸く無事であった自分を発見した。胸を撫でおろしたのであるが、呼吸がピストンのように咽喉を往復して、心臓が破裂しそうだ。遂に、大地へ伸びた。
三
わが上州では、赤城山の裏側に当たる奥利根の、武尊《ほたか》山の周囲に最も多い。四万温泉にも有名な熊猟師がいて上州と越後の国境をなす三国山脈を、東は法師温泉の上から西は草津の横手山の方まで狩り歩くが、野州では奥鬼怒の湯西川温泉の奥の会津境の山脈の谷合いには、甚だ数多く棲んでいる。
しかし私は、上州の熊も、野州の熊も、いずれも試味したけれど、どういう理由か、あまり賞賛し得なかった。
昔から奥利根へは、出羽の熊捕り専門猟師が、越後の駒ヶ岳、八海山、牛ヶ岳などをへて入り込んできたのであるから、私は山形県や秋田県の山々が、熊の本場であろうと考えて、一度本場の熊の肉を賞味したいと希望していたところ、今回はからずも友人からの贈りものを得て出羽と越後の国境でとれた熊の肉を、たんのうした。
野州や、上州の熊の肉に比べて、まことに本場だけのことはあると思ったのである。
狸は、わが上州に最も多く棲んでいると拙著『たぬき汁』に書いて置いた。上州でも、榛名山麓に最も多い。
近年でも、その地方の人々は、時たまたぬき汁に舌鼓をうっている。
一昨年十月のことである。戦争が、次第にはげしくなって、東京では学童を地方へ疎開させねばならぬことになった。
榛名南麓の箕輪町でも、疎開学童を受け入れることになったので、校舎の修築、炊事場の新
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