老狸伝
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)槍《やり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|袈裟《げさ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]
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  一

 大寒に入って間もない頃、越後国岩船郡村上町の友人から、野狸の肉と、月の輪熊の肉が届いた。久し振りの珍品到来に、家内一同大いに喜んだのである。
 越後岩船郡は新潟県の東北にあり、越後山脈を中に挟んで、山形県と境を接している。友人からきた手紙によると、野狸の方は村上近在の農村へ、のこのこと遊びに出てきたのを、鉄砲で撃ち取ったのであるが、熊の方は、友人の母の里方である越後山脈の、深い雪の谷合いの穴で、専門猟師が槍《やり》で突き殺したのであるという報《しら》せである。ご馳走が、極端に払底なこの頃の世の中に、まことに難い饗饌《きょうせん》だ。
 私は上州、会津、雄鹿半島、紀州、丹波、信濃、満州などの狸を食ったことはあるけれど、越後と出羽境の狸の肉に見参するのは、これがはじめてだ。なんとか上手に調理して、食べたいと思う。
 動物図鑑によると、狸は本州、四国、九州に産するとある。体長は五百三十ミリ内外、尾の長さは百七十ミリ内外で、体は狐よりも小さく、前肢も後肢も短い。
 毛は概ね暗灰色で、密生している。体のところどころに黒い毛が混じっていて、両眼の下は黒褐色を呈する。吻と、眼の上部と、喉などは少し白い。そして、額は短いのである。
 山や野に穴居して夜になると這いだして残肴や昆虫、蠕虫などを漁《あさ》り、時には植物質のものを食うこともある。六、七月頃、子を産む。地方により、狢ともいう。
 と、書いてある。私は、子供のころ狸と貉《むじな》は別物と思っていたが、今から四、五十年前、栃木県に狸と貉の裁判があって、その正体がはっきり分かったのである。
 日本では、狸の妊娠から分娩季を禁猟にしている。ところが、野州のある百姓が、貉を捕って殺した。それを、村の駐在巡査が発見して、貉も狸も同じ動物だ。そこでつまり、貉を殺せば狸を殺したことになるというので告発した。
 この事件が裁判に付せられたところ、百姓が述べるには、わしの村では昔から、狸と貉とは別物にしている。狸を殺してはいけないちうことは知っているけれど、貉を殺してはならぬちうことは知り申さぬ。と、いうのである。
 そこで、裁判では狸と貉の区別について専門家の意見を求めたところ、やはり駐在巡査の主張した通り、狸と貉は同一の動物であって、ところにより呼び名が異なるだけであるという証言を得たのである。よって遂に、百姓は国法により罰せられたという新聞の記事を見た。
 それ以来、私は狸と貉を同一のものと考えるようになったのだが、私の老父が私の幼い頃、私らの子供に化けものばなしをするとき、貉の化け方は、甚だ大|袈裟《げさ》で雲つくばかりの大入道となり、人間の胆を潰すのを見て喜ぶ。しかし、狸の化け方は一体に小柄で、一つ目小僧のような少年となり、時に人間に正体を見破られて逃げ出すという茶目気分がある。と、聞かせていたので、私は幼いときから両者を別ものと思ってきたわけである。
 ※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]《あなぐま》を指して、狢と呼ぶ地方もある。曲亭馬琴の里見八犬伝では、犬山道節が足尾庚申山の、猫又を退治する条で、※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]をまみ[#「まみ」に傍点]と称しているが、東京麻布の狸穴は、これをまみあな[#「まみあな」に傍点]町と唱えている。してみると、われわれの先祖は、そそっかし屋揃いで、狸と※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]を兄弟か、従兄くらいにしか考えていなかったらしい。
 動物学の方からいうと、狸は犬科に属しているけれど、※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]は貉や獺《かわうそ》と同じに、鼬鼠《いたち》科に属している。※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]は、本州、四国、九州など至るところに棲んでいて、体の長さは尾と共に六百三十ミリ内外。毛色は夏冬によって、彩を異にし、冬毛は背中に白味が多く、腹の方は黒褐色を呈し、過眼帯は黒い。爪は長く黄白色をなし、前肢の爪は殊に長大だ。
 前段に申したように地方によっては狸と混用して、狢というが体の毛の荒いのと、前肢の爪が長いのによって、はっきりと区別することができる。低い丘の横腹などに自分で穴を掘って棲んでいて、四月頃に子を産むのである。肉は脂肪を含んでやわらかく、その風味、豚に似ていると思う。

  二

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