利根の尺鮎
佐藤垢石
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《》:ルビ
(例)幽偉《ゆうい》
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(例)水|温《ぬる》む
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(例)怨めしそうに[#「怨めしそうに」は底本では「怨めしさうに」]
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一
私は利根川の水に生まれ、利根川の水に育った。
利根川の幽偉《ゆうい》にして、抱擁力の豊かな姿を想うと、温かき慈母のふところに在るなつかしさが、ひとりでに胸へこみあげてくる。私は、幼いときから利根川の水を呑んだ。泳いだ。そして釣った。
上州と、越後の国境に聳え立つ山々へは、冬のくるのが早い。十月下旬にもう雪が降る。大赤城の山裾は長く西へ伸び、榛名山の裾は東へ伸びて、その合する峡の奥に白い頭を尖《とが》らした山々が私の生まれた平野の村から遙かに望める季節になれば、もう秋も終わりに近い。
尖った山は、武尊《ほたか》岳だ。子持山と、小野子山を繋《つな》ぐ樽の上に、丸い白い頭をだして下界を覗いているのは、谷川岳である。その隣の三角山は、茂倉岳だ。
上越国境を信州の方へ、遠く走っているのは三国峠の連山だ。これも白い。大利根川はこれらの山の雪の滴りを、豊かに懐に抱いて下《くだ》ってくるのである。
だが、大利根のほんとうの水源は、それらの山々のさらに奥の奥に隠れている。水源は奥山の巨巖に自然に刻まれた阿彌陀《あみだ》如来の立像の臍の穴から、一滴ずつ落ちる水であると父母から聞かされた。少年の私は、父母にも替え難い利根川の水の源に憧れて、幾たび大刀寧岳の姿を、夢に描いたことであろう。
水|温《ぬる》む春がくれば、はやを釣った。夏がくれば、鮎を釣った。秋がくれば、木の葉に親しんだ。冬がくれば、寒寄りのはやが道糸の目印につけた水鳥の白羽を揺する振舞に、幼い胸をときめかした。
大洪水がくると、上流から大木が流れてきた。家も、馬も流れてきた。初夏の夜、しめやかな雨が降ると、東西の微風が訪れて、利根の瀬音を寝ている私の耳へ伝えてきた。その瀬音が忘れられぬ。
真夏がくると、川千鳥が、河原の上を舞った。千鳥は河原の石の下へ卵を生むのである。少年の私は、孵《かえ》ったばかりの千鳥の子を追って、石に躓《つまず》き生爪を剥《は》がして泣いたことも、二度や三度ではない。
秋がくると、来た風が流れの面《おもて》を、音もなく渡った。私は、その小波を佗《わび》しく眺めた。
冬。利根川は、うら枯れた。
春になれば、私の村は養蚕の準備に忙しかった。母と姉は、水際に近い底石に乗って、蚕席《さんせき》を洗った。洗い汁の臭みを慕って、小ばやの群れが集まってきた。四月の雪代水は、まだ冷たい。冷水に浸った母と姉の脛が真紅に凍てた色は、まだ記憶に新ただ。
もう、下流遠く下総国の方から、若鮎が遡ってくる季節は、間もないことであろう。
二
私の少年の頃には、鮎釣りに禁漁期というものがなかった。それは、私がよほど大きくなるまで、そのままであった。
そんなわけで、私は五、六年の頃から父のあとに従って、村の地先へ若鮎釣りに行った。やさしい父であった。釣りの上手《じょうず》な父であった。五十年も昔には、鮎は随分数多く下流から遡ってきたのであろうが、それにしても父の鈎へはよく掛かった。いつも大|笊《ざる》の魚籠へ鮎が一杯になったのである。
毛鈎を流れに沈めて二、三尺下流へ斜めに流し、僅かについと竿先をあげて鈎合わせをくれると、三、四寸の若鮎が一荷ずつ掛かってきた。そのときの魚の振舞が、手に響いてきた少年の感触は、忘れようとして忘れられぬ。
父は、健康の関係から大して友釣りを好まなかったけれど、大きくなると私は友釣りを習った。吾妻川の毒水のために、私の村あたりは面白い友釣りがやれなかったので、私は村から五里上流、利根川と吾妻川との合流点から上流へ遠征したのである。合流点から上流は名にしおう坂東太郎の激流と深淵の連続である。白井の簗《やな》、雛段、樽、天堂、左又、宮田のノドット、竜宮方面へと釣り上がって行った。
とりわけ、宮田のノドットには大ものがいた。一町も下流へ走らねば、掛かった鮎が水際へ寄ってこなかった。
猫滝、芝河原、長つ滝、円石、桜の木方面の釣興も素敵であった。初心のころ、円石の流心で大漁したことは、私の釣りの歴史に特筆したい。芝河原では、不漁のために、鮎の習性について、いろいろ教えられた記憶がある。猫滝は凄い瀬だ。
さらに上流、鳥山新道から棚下、綾戸、中河原、岩本地先などの上流へ遠征する頃には私の友釣り技術もよほど上達していた。綾戸の簗のしも手では、激流に脚をさらわれて、命拾いしたことがある。中河原の岸壁の中腹を、横這いに這うときは、恐ろしかった。ここらあたりでは、七月中旬から八月はじめになると、ほんとうの尺鮎が釣れたのである。
水量は多く川幅は広く、瀬は荒い。非力の私でさえ五間竿の長竿を使わねばならぬのであったが、体力のある職業釣り師は六間竿以上、七間などという、べら棒に長い竿を振りまわしていた。そんな竿でなければ届かないほど、遠い流心に大きな鮎は石の垢を食っていたのだ。
岩本へは、近郷近在から釣り人が集まってきて、甚だ川は賑やかであった。棚下や綾戸は両岸きり立って利根川は峡流をなしているが、岩本地先は割合に広い河原を持ち、割合に足場が楽である。そのために、ここは人気があったのである。岩本には、利根川随一の名人、茂市がいまなお達者で釣っている。
支流の片品川へも分けいった。片品川は尾瀬沼に近い山々に水源を持つ、清冽の水を盛った滔々たる急流である。この地方の人々は、この川に棲む鮎を鼻曲がり鮎と称した。醤油屋の瀬では、思わぬ大漁に味を占めたことがある。それは、夕立水の澄み口であった。糸の瀬には十日あまりも滞在して、鼻曲がり鮎の友釣りを堪能した。
片品川との合流点から上流の利根川は、次第次第に急流をなして奔下する水貌だ。戸鹿野橋や杉山下、ついで、曲がつ滝。曲がつ滝は、大利根百里の全川中随一として指されているところの難所である。瀬は樋《とい》から吐き出すように流れ落ちる。瀬の中にがんばっている岩は家ほどもある。その急流へ立ち込んで、水に脚をさらわれれば、もうあの世行きである。
釣りあげてみて、よくもまあ我が腕に、と思うほどの大ものが棲んでいる。竿は、六間半以上でないと、うまい場へ囮《おとり》鮎は泳いで行かない。
鷺石橋の上下は、平場になっていて、まことに釣りやすい場所だ。
三
沼田を過ぎて、薄根川との合流点から間庭地先も、ザラ場続きで足場がよい。
次は、後閑《ごかん》地先である。
月夜野橋を中心として、上下いずれにも無数に釣り場がある。鮎の姿が立派であるのと、艶の鮮やかであるのは、全川中後閑が第一等である。下総の銚子にある利根河口からここまでは、七、八十里もあろう。一寸か一寸五分に育った鮎が、太平洋の海水に別れるのは、三月初旬であるかも知れない。それが、長い長い旅路をへて、後閑まで達するには、もう夏の土用に入ろうとする七月中旬だ。
その旅の月日の間に、鮎はどんなに水や岩と闘ったか知れない。後閑地先へ足を止めたとき、鮎は頑健そのものになっている。身の上八、九寸、四、五十匁から百匁近くまで育っている。そして、野鯉のように細身で、筒胴の姿である。胴が筒と同じに細くなっていなければ、滝なす潺湍《せんたん》は乗り切れない。
肉がしまっている。香気が高い、背の色が濃藍だ。敏捷であるのと、体力的であるのと、闘争心の強いのと、強引であるのとは、あたかも密林に住む虎か豹にたとえられよう。
掛かった。釣り人は、まず足許に注意せねばならない。でないと、踏んだ石の水垢に辷《すべ》ってでんぐり返る。囮鮎も、掛かり鮎も、竿もめちゃくちゃだ。足の速力が、鮎の逸走の速力に伴わねば、道糸を切られてしまうのである。釣り人は、まるで夢中だ。下流へ走りに走って、ようやく手網へ抜き取ったあとでも、しばらく心臓の鼓動はやまない。そして、この辺は水源に近く雪橋から滴り落ちる水も、長い時間太陽の恵みを得ていないから、温度が低いのである。土用の最中でも、水へ立ち込むと、ひやりとする。だから、鮎が丈夫なのだ。
月夜野橋から上流には西海子《さいかち》前、長どぶ、病院裏、地獄などの釣り場があるが、地獄の滝も凄寒《そうかん》を催す眺めである。
水上温泉から二里下流の小松に、東電の発電所が竣成したのは、随分古い昔である。小松に発電所ができてからは、天然鮎ではその放水路まで達するのが、最も長い旅を続けたことになる。
私は、月夜野橋の下流の瀬が、竜宮の崖に突き当たった落ち込みで、百匁以上の鮎を釣ったことがある。ついに取るには取ったが、私はその鮎と囮鮎を入れてしまうと、河原に尻餅をついて長い間、溜め息を吐いていた。
後閑の対岸で、本流へ合するのは、谷川の渓水を集めて下りきたった赤谷川である。赤谷川は、水温が割合に高いために、後閑まで旅してきた本流の鮎は、この支流へは、遡上しなかった。
赤谷川は、下流から中流へかけては、山女魚《やまめ》専門の川である。上流の谷川岳の麓まで分け入れば、岩魚《いわな》ばかりであるが、近年奥利根地方は、温泉郷が賑やかになったために、渓流魚に値打ちが出てきたので、職業釣り人は腕によりをかけて釣るようになった。そんな次第で赤谷川の渓流魚は、四月一杯くらいで殆ど釣り絶やされてしまう。
四
大きな姿と、味の立派であることでは日本一の鮎を育てる利根川。旅の釣り人垢石を生んだ利根川は、悲しい哉《かな》いまは亡びた。
若鮎が、利根川の中流烏川との合流点の埼玉県本庄町裏の広場へ達するのは、遅い年で四月中旬で、早い年には三月下旬であった。それが下の宮、藤川前、新堀、横手、萩原を経て、早い年には四月の二十日頃、私の村の地先へ達していたのである。
さらに、前橋の県庁を通り坂東橋を抜けて吾妻川との合流点を過ぎ、利根川本来の姿の大渓谷へ入って行くのは五月中旬であった。若鮎は、続いて躍進して行った。猫、鳥山、綾戸の難を越して岩本と森下とが相対する峡流へは、六月上旬に姿を現わした。この時代には、もう若鮎は少年期から青年期に移ろうとして、体躯に逞しい肉がついていた。
戸鹿野橋の下流で群れは二つに別れた。右を指す群れは、片品川へ。左を指す群れは、本流へ。片品川へ入った一群は、ひた遡りに遡って、五里上流の吹割滝の滝壺まで達した。本流を辿《たど》る一群は、曲がつ滝の奔流と闘い、上川田村の肩を曲がり、茂左衛門地蔵の前を通って、地獄や青岩に一|瞥《べつ》をくれ、小松まで泳ぎついて、ほっとするのは、六月も終わりの頃であった。顧みれば、銚子の海に別辞を残してから、既に何十里の旅を続けたろう。恐らく、百里に近くはあるまいか。
若鮎は、一人前の生活力が、からだから溢れるのを感じていた。
しかしながら、利根川は水温が低い大河である。吾妻川との合流点から上流は、六月に入ってからでも、摂氏の十二度を超えまい。また水量の多い川である。坂東橋の橋下で、平均六千個というのだ。これでは、なかなか水は温まらないのである。そして、水源に抉《えぐ》り込んだ深渓には、四季雪原と雪橋が消えないのだ。
上州側には大刀寧岳と剣ヶ倉、白沢山。越後側に聳える兎岳、越後沢山、八海山、越後駒ヶ岳などを合わせた山々は、標高僅かに七、八千尺に過ぎないけれど、人里遠いことにおいては日本一である。その山々から滴りでて、深い渓の底の落葉を潜り、陽《ひ》の眼を見ないで奔下する水であるから、真夏になってからでも、朝夕は身に沁みる冷たさを覚えるのは、当たり前であろう。
そういう性質の流水であるから、東海道の諸川や、栃木、茨城方面の川が、六月一日の解禁日から、もう盛んに友釣りに掛かるというのに、利根川の鮎は早くても七月に入らなければ囮鮎を追わなかった。
もっとも、数十年まれなことであったが、大正
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