十三年には、驚くほど水温が高まって六月十五日から、円石の簗《やな》の尻で友釣りに掛かったが、それは例外である。
綾戸の荒瀬を境として下流は七月初旬、上流は七月中旬、後閑を中心とした最上流では、七月下旬を迎えなければ、鮎は友釣りの鈎に掛からぬのを普通とした。だが、いったん囮鮎を追いはじめると、中断することなく、九月上旬まで、忙しいほど釣れ盛った。
五
ところが、人間どもが憎悪すべき、恐怖すべき、とんでもないたくらみを起こした。
大正末年、大川平三郎は金儲けのために、片品川の水を糸之瀬で悉く塞きあげ、森下に発電所を起こし、下流へ一滴の水も落とさない仕事を完成した。と同時に、浅野総一郎は事業欲のために、利根本流の四、五千個の水量を、岩本地先の大堰堤で締めきり、これを五里下流の真壁村へ運び、大発電所をこしらえた。
これで、利根川の鮎の運命はきまった。
でも、大川平三郎は糸之瀬から一滴の水も下流へこぼさなかったが、浅野総一郎は岩本の堰堤から、ぎこちない魚梯《ぎょてい》を通して、僅かの水を下流へ送った。そんな障害物が川の真ん中に横たわってから、はるばる太平洋に別れて遡ってきた若鮎の群れは、大堰堤の下へ集まって、怨めしそうに[#「怨めしそうに」は底本では「怨めしさうに」]、高い高いコンクリートの壁を見あげた。
一群のうち、からだの頑丈な、もう十五、六匁に達した若ものは、魚梯から僅かにこぼれ落ちる水の中へ、突っ込んでいった。そして、とうとう魚梯を登りつめて、大堰堤の上へ満々と溜まった淵へ躍り込んだ。これは、並み大抵の労苦ではない。
この勇敢な、体力的な若鮎は、一群のうちそう大した数がいるものではない。多くの力の弱い意気地がない連中は、自分たちになし能わざるを観念して、すごすごと下流の方へ引き返していった。そして、手頃の石について水垢を食って、育った。
魚梯を登っていった連中は、昔と同じように堅肉に肥えて、強い力で釣り人の鈎に掛かった。しかし、そんなことは二、三年で終わってしまった。次第次第に、川の条件が悪くなってくると共に、海からくる鮎の数が減っていった。魚梯から落ちる水が、雀の涙ほどに量が少なくなっていったからだ。それ以来、堰堤から上流は、まれにしか天然鮎の姿を見ぬようになったのである。堰堤から下流も、悲惨な状態を呈した。堰堤からのこぼれ水では、吾妻川の合流点から上流へ、鮎は安心して遡上し得るものでなかった。合流点と堰堤までの間には、南雲沢を頭として各所に細い自然湧水があるけれど、これは僅かに二、三百個に過ぎない。昔の水量に比べると、十分の一にも足りないのだ。
こんなふうでは、鮎は利根川への生活をあきらめるより外に術はない。
こんな結果に陥ることを予期して、利根漁業組合では、堰堤が竣成した年から、琵琶《びわ》湖産の稚鮎を買い入れて、上流へも下流へも放流したのである。だが、あの大きな川へ僅かばかりの鮎を放流したところで、地球上に散在する金剛石のようなもので寥《りょう》々としている。
近年も、相変わらず放流鮎を続けているが、それは十五万尾か二十万尾にしか過ぎない。それも、十五、六里にわたる範囲に放流するのであるから、釣れたとてほんの短い期間である。そこで利根川筋の釣り人は、鮎を求め上越線を利用し、こぞって越後国の魚野川の方へ遠征する次第になったのだ。
大正十三年に、岩本の名人茂市は七、八の二ヵ月で売上七百五十円の鮎を釣った。最近ならば、大したことはないが、当時の七百五十円といえば、莫大な額だ。田地を、二反五畝も買えたのである。鮎を釣って、田地を買うというのは、面白い話であると思う。
六
前橋市を中心として、上流は坂東橋付近、下流は新堀地先までの利根川でやる若鮎釣りの技術は独特のものである。日本全国に、ちょいと類を見ない。
二間一尺の軽竿、道糸を竿丈より一尺短くして、三匁乃至五匁の銃丸型の錘《おもり》をつけ、鮎毛鈎に蛆《うじ》をさして、瀬脇へ振り込み、右の腕を前方へ真っ直ぐに伸ばして、こちら合わせで、すいすいと美しい若鮎を抜きあげる上州人の釣り姿は、あたかも巧みな芸能人の風があった。それも、もう幾年ならずして、亡びてしまうであろう。
底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
1951(昭和26)年8月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月5日作成
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