り人垢石を生んだ利根川は、悲しい哉《かな》いまは亡びた。
若鮎が、利根川の中流烏川との合流点の埼玉県本庄町裏の広場へ達するのは、遅い年で四月中旬で、早い年には三月下旬であった。それが下の宮、藤川前、新堀、横手、萩原を経て、早い年には四月の二十日頃、私の村の地先へ達していたのである。
さらに、前橋の県庁を通り坂東橋を抜けて吾妻川との合流点を過ぎ、利根川本来の姿の大渓谷へ入って行くのは五月中旬であった。若鮎は、続いて躍進して行った。猫、鳥山、綾戸の難を越して岩本と森下とが相対する峡流へは、六月上旬に姿を現わした。この時代には、もう若鮎は少年期から青年期に移ろうとして、体躯に逞しい肉がついていた。
戸鹿野橋の下流で群れは二つに別れた。右を指す群れは、片品川へ。左を指す群れは、本流へ。片品川へ入った一群は、ひた遡りに遡って、五里上流の吹割滝の滝壺まで達した。本流を辿《たど》る一群は、曲がつ滝の奔流と闘い、上川田村の肩を曲がり、茂左衛門地蔵の前を通って、地獄や青岩に一|瞥《べつ》をくれ、小松まで泳ぎついて、ほっとするのは、六月も終わりの頃であった。顧みれば、銚子の海に別辞を残してから、既に何十里の旅を続けたろう。恐らく、百里に近くはあるまいか。
若鮎は、一人前の生活力が、からだから溢れるのを感じていた。
しかしながら、利根川は水温が低い大河である。吾妻川との合流点から上流は、六月に入ってからでも、摂氏の十二度を超えまい。また水量の多い川である。坂東橋の橋下で、平均六千個というのだ。これでは、なかなか水は温まらないのである。そして、水源に抉《えぐ》り込んだ深渓には、四季雪原と雪橋が消えないのだ。
上州側には大刀寧岳と剣ヶ倉、白沢山。越後側に聳える兎岳、越後沢山、八海山、越後駒ヶ岳などを合わせた山々は、標高僅かに七、八千尺に過ぎないけれど、人里遠いことにおいては日本一である。その山々から滴りでて、深い渓の底の落葉を潜り、陽《ひ》の眼を見ないで奔下する水であるから、真夏になってからでも、朝夕は身に沁みる冷たさを覚えるのは、当たり前であろう。
そういう性質の流水であるから、東海道の諸川や、栃木、茨城方面の川が、六月一日の解禁日から、もう盛んに友釣りに掛かるというのに、利根川の鮎は早くても七月に入らなければ囮鮎を追わなかった。
もっとも、数十年まれなことであったが、大正十三年には、驚くほど水温が高まって六月十五日から、円石の簗《やな》の尻で友釣りに掛かったが、それは例外である。
綾戸の荒瀬を境として下流は七月初旬、上流は七月中旬、後閑を中心とした最上流では、七月下旬を迎えなければ、鮎は友釣りの鈎に掛からぬのを普通とした。だが、いったん囮鮎を追いはじめると、中断することなく、九月上旬まで、忙しいほど釣れ盛った。
五
ところが、人間どもが憎悪すべき、恐怖すべき、とんでもないたくらみを起こした。
大正末年、大川平三郎は金儲けのために、片品川の水を糸之瀬で悉く塞きあげ、森下に発電所を起こし、下流へ一滴の水も落とさない仕事を完成した。と同時に、浅野総一郎は事業欲のために、利根本流の四、五千個の水量を、岩本地先の大堰堤で締めきり、これを五里下流の真壁村へ運び、大発電所をこしらえた。
これで、利根川の鮎の運命はきまった。
でも、大川平三郎は糸之瀬から一滴の水も下流へこぼさなかったが、浅野総一郎は岩本の堰堤から、ぎこちない魚梯《ぎょてい》を通して、僅かの水を下流へ送った。そんな障害物が川の真ん中に横たわってから、はるばる太平洋に別れて遡ってきた若鮎の群れは、大堰堤の下へ集まって、怨めしそうに[#「怨めしそうに」は底本では「怨めしさうに」]、高い高いコンクリートの壁を見あげた。
一群のうち、からだの頑丈な、もう十五、六匁に達した若ものは、魚梯から僅かにこぼれ落ちる水の中へ、突っ込んでいった。そして、とうとう魚梯を登りつめて、大堰堤の上へ満々と溜まった淵へ躍り込んだ。これは、並み大抵の労苦ではない。
この勇敢な、体力的な若鮎は、一群のうちそう大した数がいるものではない。多くの力の弱い意気地がない連中は、自分たちになし能わざるを観念して、すごすごと下流の方へ引き返していった。そして、手頃の石について水垢を食って、育った。
魚梯を登っていった連中は、昔と同じように堅肉に肥えて、強い力で釣り人の鈎に掛かった。しかし、そんなことは二、三年で終わってしまった。次第次第に、川の条件が悪くなってくると共に、海からくる鮎の数が減っていった。魚梯から落ちる水が、雀の涙ほどに量が少なくなっていったからだ。それ以来、堰堤から上流は、まれにしか天然鮎の姿を見ぬようになったのである。堰堤から下流も、悲惨な状態を呈した。堰堤からのこぼれ水では、吾妻川の
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