ろしかった。ここらあたりでは、七月中旬から八月はじめになると、ほんとうの尺鮎が釣れたのである。
 水量は多く川幅は広く、瀬は荒い。非力の私でさえ五間竿の長竿を使わねばならぬのであったが、体力のある職業釣り師は六間竿以上、七間などという、べら棒に長い竿を振りまわしていた。そんな竿でなければ届かないほど、遠い流心に大きな鮎は石の垢を食っていたのだ。
 岩本へは、近郷近在から釣り人が集まってきて、甚だ川は賑やかであった。棚下や綾戸は両岸きり立って利根川は峡流をなしているが、岩本地先は割合に広い河原を持ち、割合に足場が楽である。そのために、ここは人気があったのである。岩本には、利根川随一の名人、茂市がいまなお達者で釣っている。
 支流の片品川へも分けいった。片品川は尾瀬沼に近い山々に水源を持つ、清冽の水を盛った滔々たる急流である。この地方の人々は、この川に棲む鮎を鼻曲がり鮎と称した。醤油屋の瀬では、思わぬ大漁に味を占めたことがある。それは、夕立水の澄み口であった。糸の瀬には十日あまりも滞在して、鼻曲がり鮎の友釣りを堪能した。
 片品川との合流点から上流の利根川は、次第次第に急流をなして奔下する水貌だ。戸鹿野橋や杉山下、ついで、曲がつ滝。曲がつ滝は、大利根百里の全川中随一として指されているところの難所である。瀬は樋《とい》から吐き出すように流れ落ちる。瀬の中にがんばっている岩は家ほどもある。その急流へ立ち込んで、水に脚をさらわれれば、もうあの世行きである。
 釣りあげてみて、よくもまあ我が腕に、と思うほどの大ものが棲んでいる。竿は、六間半以上でないと、うまい場へ囮《おとり》鮎は泳いで行かない。
 鷺石橋の上下は、平場になっていて、まことに釣りやすい場所だ。

   三

 沼田を過ぎて、薄根川との合流点から間庭地先も、ザラ場続きで足場がよい。
 次は、後閑《ごかん》地先である。
 月夜野橋を中心として、上下いずれにも無数に釣り場がある。鮎の姿が立派であるのと、艶の鮮やかであるのは、全川中後閑が第一等である。下総の銚子にある利根河口からここまでは、七、八十里もあろう。一寸か一寸五分に育った鮎が、太平洋の海水に別れるのは、三月初旬であるかも知れない。それが、長い長い旅路をへて、後閑まで達するには、もう夏の土用に入ろうとする七月中旬だ。
 その旅の月日の間に、鮎はどんなに水や岩と闘ったか知れない。後閑地先へ足を止めたとき、鮎は頑健そのものになっている。身の上八、九寸、四、五十匁から百匁近くまで育っている。そして、野鯉のように細身で、筒胴の姿である。胴が筒と同じに細くなっていなければ、滝なす潺湍《せんたん》は乗り切れない。
 肉がしまっている。香気が高い、背の色が濃藍だ。敏捷であるのと、体力的であるのと、闘争心の強いのと、強引であるのとは、あたかも密林に住む虎か豹にたとえられよう。
 掛かった。釣り人は、まず足許に注意せねばならない。でないと、踏んだ石の水垢に辷《すべ》ってでんぐり返る。囮鮎も、掛かり鮎も、竿もめちゃくちゃだ。足の速力が、鮎の逸走の速力に伴わねば、道糸を切られてしまうのである。釣り人は、まるで夢中だ。下流へ走りに走って、ようやく手網へ抜き取ったあとでも、しばらく心臓の鼓動はやまない。そして、この辺は水源に近く雪橋から滴り落ちる水も、長い時間太陽の恵みを得ていないから、温度が低いのである。土用の最中でも、水へ立ち込むと、ひやりとする。だから、鮎が丈夫なのだ。
 月夜野橋から上流には西海子《さいかち》前、長どぶ、病院裏、地獄などの釣り場があるが、地獄の滝も凄寒《そうかん》を催す眺めである。
 水上温泉から二里下流の小松に、東電の発電所が竣成したのは、随分古い昔である。小松に発電所ができてからは、天然鮎ではその放水路まで達するのが、最も長い旅を続けたことになる。
 私は、月夜野橋の下流の瀬が、竜宮の崖に突き当たった落ち込みで、百匁以上の鮎を釣ったことがある。ついに取るには取ったが、私はその鮎と囮鮎を入れてしまうと、河原に尻餅をついて長い間、溜め息を吐いていた。
 後閑の対岸で、本流へ合するのは、谷川の渓水を集めて下りきたった赤谷川である。赤谷川は、水温が割合に高いために、後閑まで旅してきた本流の鮎は、この支流へは、遡上しなかった。
 赤谷川は、下流から中流へかけては、山女魚《やまめ》専門の川である。上流の谷川岳の麓まで分け入れば、岩魚《いわな》ばかりであるが、近年奥利根地方は、温泉郷が賑やかになったために、渓流魚に値打ちが出てきたので、職業釣り人は腕によりをかけて釣るようになった。そんな次第で赤谷川の渓流魚は、四月一杯くらいで殆ど釣り絶やされてしまう。

   四

 大きな姿と、味の立派であることでは日本一の鮎を育てる利根川。旅の釣
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