ると、来た風が流れの面《おもて》を、音もなく渡った。私は、その小波を佗《わび》しく眺めた。
 冬。利根川は、うら枯れた。
 春になれば、私の村は養蚕の準備に忙しかった。母と姉は、水際に近い底石に乗って、蚕席《さんせき》を洗った。洗い汁の臭みを慕って、小ばやの群れが集まってきた。四月の雪代水は、まだ冷たい。冷水に浸った母と姉の脛が真紅に凍てた色は、まだ記憶に新ただ。
 もう、下流遠く下総国の方から、若鮎が遡ってくる季節は、間もないことであろう。

   二

 私の少年の頃には、鮎釣りに禁漁期というものがなかった。それは、私がよほど大きくなるまで、そのままであった。
 そんなわけで、私は五、六年の頃から父のあとに従って、村の地先へ若鮎釣りに行った。やさしい父であった。釣りの上手《じょうず》な父であった。五十年も昔には、鮎は随分数多く下流から遡ってきたのであろうが、それにしても父の鈎へはよく掛かった。いつも大|笊《ざる》の魚籠へ鮎が一杯になったのである。
 毛鈎を流れに沈めて二、三尺下流へ斜めに流し、僅かについと竿先をあげて鈎合わせをくれると、三、四寸の若鮎が一荷ずつ掛かってきた。そのときの魚の振舞が、手に響いてきた少年の感触は、忘れようとして忘れられぬ。
 父は、健康の関係から大して友釣りを好まなかったけれど、大きくなると私は友釣りを習った。吾妻川の毒水のために、私の村あたりは面白い友釣りがやれなかったので、私は村から五里上流、利根川と吾妻川との合流点から上流へ遠征したのである。合流点から上流は名にしおう坂東太郎の激流と深淵の連続である。白井の簗《やな》、雛段、樽、天堂、左又、宮田のノドット、竜宮方面へと釣り上がって行った。
 とりわけ、宮田のノドットには大ものがいた。一町も下流へ走らねば、掛かった鮎が水際へ寄ってこなかった。
 猫滝、芝河原、長つ滝、円石、桜の木方面の釣興も素敵であった。初心のころ、円石の流心で大漁したことは、私の釣りの歴史に特筆したい。芝河原では、不漁のために、鮎の習性について、いろいろ教えられた記憶がある。猫滝は凄い瀬だ。
 さらに上流、鳥山新道から棚下、綾戸、中河原、岩本地先などの上流へ遠征する頃には私の友釣り技術もよほど上達していた。綾戸の簗のしも手では、激流に脚をさらわれて、命拾いしたことがある。中河原の岸壁の中腹を、横這いに這うときは、恐
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