の子孫に当たっているため、徳川には外様であった。なにかの躓《つまず》きを取りあげて、取り潰されるのは当然の運命であったのである。鶴岡へきてからの酒井家は表高が十四万石、それに幕府から二万五千石を預けられた十六万五千石の収入のわけであったのだが、南北十里、東西数里にわたるこの庄内平野からの上納米は、酒田の本間家の持ち分を除くにしても、十六、七万石や二十万石のものではなかったであろう。裕に三十万石を超えていたに違いない。
 これほど、豊かな鶴岡藩であったから藩士は遊惰に流れ、釣りなど道楽半分に弄《もてあそ》ぶのかと思うと、それは大間違いであった。幕府が酒井家を鶴岡に封じた理由は、北方に秋田の佐竹、東に米沢の上杉、遠く仙台の伊達に備え、徳川の四天王の一つとして、親藩たる役目に立たせたのである。だから藩公は武に意を用いた。
 釣りを練武の技としたというのは、妙に聞こえるのであるが、これはこの頃いうところの体位向上と、規律の訓練に資したものらしい。鶴岡から、賀茂の港や湯野浜の釣り場までは三里あまりある。藩士は、夜半の丑《うし》刻に勢揃いして、竿を担いで釣り場へ駆足訓練をした。もちろん、藩公が先導
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