ら、さらに酒田港へ海釣りの見物に行った。土地の人々の話によると、酒田の町にはいま二、三千人の釣り客がいるそうだ。しかし、酒田に釣りが盛んになったのは、今はじまってのことではない。遠く幕末の頃から、鶴岡の酒井藩の風を学んで町民が競って竿を担ぐようになったのであるという。まことに、興深い話である。
酒田港は、出羽の名川最上川の河口にある。遠く海に突きだした突堤が、二、三千メートルもあろうか。その突堤の上に、夜となく昼となくいつも二、三百人の釣り客が竿と糸とを操っている。これから次第に秋深み、黒鯛の当歳子と鯔《ぼら》の釣季に入れば、銀座の石畳の道を彷彿とさせて壮観であるそうだ。千人にも余る釣り人が幅狭い堤上を右往左往して随所に竿と糸が乱れ争い、その雑踏は身動きもならぬほどであるという話であった。
ちょうど、私が堤防の突端まで行った日は、釣りものの少ない季節であった。僅かに小型の縞鯛、小けいづ、さより、沙魚《はぜ》などばかり釣れるもので、釣り人はいずれも竿を投げうち、腕を拱《こまね》いて不漁を歎じていた。
河口の風景は素晴らしい。沖の飛島は、低い空を行く雲に遮られて見えなかったが、北の空に高い鳥海山が長い裾を東西に伸ばしていた。山の肌はまだ蒼《あお》い。腰の辺りに幾とせ消え残る万年雪が、まだらに白く秋陽に輝いていた。河口には、左にも右にも遠く白砂が続いている。白砂が陽炎《かげろう》に消えた西南の果てには、賀茂の港や湯野浜あたりの山々が、遙々と紫色に並び立った。淡島や佐渡ヶ島は、悠々と海霞の奥に眠っているのであろう。眼に見えぬ。
ここの釣り人は、竿の調子に微妙な関心を持っていた。穂先はやわらかで、胴に調子を保ってしかもねばりのある竿を好むのである。それは、庄内地方特産の唐竹の根掘りで作るのであるが、少し重過ぎるきらいはあるとはいえ、魚が鈎をくわえてからの味は、満点であった。
ここの人が使う手網は、美術品である。枠は竹を削ってはぎ合わせ、それを漆で塗りかためたものだ。網は、絹糸の一分目である。私は、その小型のものを酒田の釣友本間祐介氏から、記念品として贈られた。
羽州の旅数日、いつの日も地米の飯に恵まれた。豊かな幸福を感じたのである。これは庄内平野が広々としてあるおかげであろう。その平野を横ぎって、私は湯野浜温泉に一宿した。電車の窓から、既に刈り取られた稲田の畦に、女学生の群れが蝗《いなご》を追う姿を眺めて過ぎた。
湯野浜温泉の町は鶴岡から西北へ三里、日本海の波が砕ける巖の上にある。私は数年前、吹雪の夕べこの温泉を訪ねて、素朴の印象に冬の旅情を慰めたのであったが、このたびはその思い出を求めて再びここに旅衣を脱いだのである。ところが、僅かに五、六年の間に、湯野浜温泉の情趣は荒《すさ》みきってしまった。宿の階上にも町の角にも何やらの景気が漲《みなぎ》り溢れて、過ぎし日を偲ぶよすがもなかった。膳にのった肴も羮《あつもの》も徒らに都の風をまねて、雅味など思うべくもない。
けれど、海は変わらぬ趣であった。白泡がしぶき立つ渚《なぎさ》に、豪壮な巖が賀茂の港の方まで、底黒い褐色に続いていた。ここが、鶴岡の同好の士の釣り場である。鶴岡は、昔から釣りの都であった。藩公酒井家は、いつの頃からか藩士に釣りを練武の技として奨励してきたのである。殊に維新の藩主左衛門尉忠篤は、歴代のうち一番釣りに熱心であった。
一体酒井家は、元和八年鶴岡の城主最上源五郎義俊が御家騒動のために取り潰されたあとへ、信州松代十万石から転封されたのである。最上家は承平の頃から名家で、斯波兼頼の子孫に当たっているため、徳川には外様であった。なにかの躓《つまず》きを取りあげて、取り潰されるのは当然の運命であったのである。鶴岡へきてからの酒井家は表高が十四万石、それに幕府から二万五千石を預けられた十六万五千石の収入のわけであったのだが、南北十里、東西数里にわたるこの庄内平野からの上納米は、酒田の本間家の持ち分を除くにしても、十六、七万石や二十万石のものではなかったであろう。裕に三十万石を超えていたに違いない。
これほど、豊かな鶴岡藩であったから藩士は遊惰に流れ、釣りなど道楽半分に弄《もてあそ》ぶのかと思うと、それは大間違いであった。幕府が酒井家を鶴岡に封じた理由は、北方に秋田の佐竹、東に米沢の上杉、遠く仙台の伊達に備え、徳川の四天王の一つとして、親藩たる役目に立たせたのである。だから藩公は武に意を用いた。
釣りを練武の技としたというのは、妙に聞こえるのであるが、これはこの頃いうところの体位向上と、規律の訓練に資したものらしい。鶴岡から、賀茂の港や湯野浜の釣り場までは三里あまりある。藩士は、夜半の丑《うし》刻に勢揃いして、竿を担いで釣り場へ駆足訓練をした。もちろん、藩公が先導
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