姫柚子が数粒、小皿の上にあった。私は、それをなつかしく眺めた。
 寒国である私の故郷は、柑橘類に恵まれていなかった。姫柚子など、あろうはずがないけれど、私は姫柚子の味に永い間親しんできたのである。それは、私に四国の阿波の国に友人があって、そこから毎年初秋になると送ってきた。私は、湯豆腐にちり鍋に、この姫柚子の調味を配して、遠い国にある友の心を偲んだのである。
 姫柚子は、西国の特産である。四国、九州、紀州などのほかに絶えて見ぬのであるけれど、これはどこから到来したのであるかと鎌倉の釣友に問うたところ、やはり讃岐の友から送って貰ったのであると答えた。そこで私は、阿波の国の友人の身の上を思って、なつかしさが一入《ひとしお》であった。友はいま、故郷を離れ南支へ赴いて働いている。そのために、ここ一両年は姫柚子に接しなかったのである。久し振りに、四国の友に会う思いがした。
 ちり鍋の材料は、大きなほうぼう一尾、槍烏賊《やりいか》三杯、白菜、根深《ねぶか》、細切りの蒟蒻《こんにゃく》などであったが、これは決して贅を尽くした魚菜とはいえまい。しかしながら、姫柚子の一滴は、爛然《らんぜん》として鍋のなかに佳饌の趣を呼び、時しも窓外の細雨に、二人は秋声の調べを心に聞いた。鼎《かなえ》中の羮《あつもの》に沸く魚菜の漿、姫柚子の酸。われらの肉膚は、ひとりでに肥るのではないであろうか。
 さらに膳を賑わせたのが、茄子《なす》の丸焼きであった。これは友が庭前の叢《くさむら》に培った秋茄子である。焦げた皮を去って、丸呑みに一噛み噛み込めば、口中に甘滋が漂う。次に、唐黍の掻き揚げが盆にでた。これは、珍味である。唐黍の果粒が含む濃淡な滋汁が、油と融け合い清涼の味、溢れるばかりであった。季節の天産を、わが手に割烹《かっぽう》するほど快きはないのである。友の家庭に潜むこの情味を、羨ましく思う。
 さて私は、ほんとうは鮎を求めて、小国川へ釣りの旅を志したのであった。しかし、この山国の渓流はもう水が冷えきって、鮎は落ち鮎となり下流に下って、瀬見温泉あたりに姿をとどめなかったのである。とはいえ、それを私は残念とは思わなかった。それは、落ち鮎は味の季節ではないからである。
 人により子持ち鮎を至味というが、私はそれに賛成しない。鮎は土用があけて秋立つころになると、片子を持ちはじめる。つまり、生殖腺発達の兆《きざし》を現わすのだ。生殖腺はからだの栄養を吸収して肥え育ってゆくのであるから、腹の卵子が大きくなればなるほど、鮎の肉は痩せてゆくのである。肉痩せ、性に疲れた鮎がおいしかろうはずがない。
 鮎は、川筋やその国の気候風土によって少しの差はあるが、一体に六月中旬から八月中旬までの夏のさかりに漁《と》れたのを、至味としているのである。初夏の鮎は水鮎と称え、香気は高いけれど、肉にこくがない。されば、私ら釣り人は夏のさかりに、好んで鮎を釣るのである。さりながら、私は名ある鮎の川を耳にすれば、季節を忘れてそこへ旅する慣わしを持っている。このたびの、小国川への釣り旅もそれであった。
 鈎に掛かる鮎はいなかったが、簗《やな》に落ちる鮎はいた。簗に落ちる鮎を手にしてみたところ、陽気のためかまだ肌の艶が若々しかった。羽州の人々が自慢するように、頭が小さく胴は太く長く立派な姿であったのである。ちょうど、私がかつて世に紹介したことのある飛越国境に近いおわら節が有名な八尾町の奥、神通川の支流室牧川の鮎に似て、良質の岩石から湧く麗水に育ったかを思わせた。だが、既にもう秋の鮎である。あの、味品にまとう香気が抜けていた。肉の量は薄く抱卵は腹に一杯であった。これが盛暑の候であったなら、どんなに味品高い鮎であったろう。
 羽前と羽後の国境の岩山から滴りでて、新庄の町の西北を流れる鮭川へも行ってみた。この川には、まだ数多い鮎がいた。そして、よく囮《おとり》釣りに掛かるのを見た。けれども、この川の鮎には気品が乏しかったのである。肉がやわらかで、肌の色に清快を欠いている。もちろん、食味は上等とはいえない。
 鮎が立派でないのは、この川の姿が物語っているのである。小国川と異なって鮭川に沿う地方には水田が多い。水田の落ち水を集めて下《くだ》る川だけに、流れる水が麗明とはいえないのだ。ここに育つ鮎は、誰が見ても高尚であるとは考えられないと思う。
 それに、川底に転積する玉石も小さい。また岸の崖に、泥炭の層が露出していた。鮎は、炭粉をことのほか嫌うのである。磐城の国には、幾本もの渓流が太平洋へ注いでいる。そして、どの川にも鮎が多い。ところが磐城の国の川の上流には、石炭の層が幾重にも断続していて、そこから流れ出る炭粉のために、鮎は香味の気品を備えぬのである。鮭川の鮎もそれと同じであった。
 私は、小国川と鮭川を辞してか
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