であった。
そして、武士一同は巖上に立って日本海の暁の気を吸い、さらに朝陽を浴びて、朝めし前には鶴岡へ帰りついていた。これが、健康でなくてなんであろう。夜半の勢揃いに遅れたものは厳罰に処せられた。かくして体位と規律の向上をはかったのである。
当主、忠良伯も名うての釣客《ちょうきゃく》である。武家出の家族二百八十家のうち、いま東京に住まいを持たぬのは、この酒井伯がただ一軒であると思う。鶴岡の旧城の裏に当たる先々代忠篤が隠居所にした屋敷を、いまもなお御殿と唱えて忠良伯は住んでいる。家職の者は昔と変わらぬ袴をつけ、その御殿に登城して御同役いかがでござると挨拶しているのであるそうだ。昔の、大名生活そのままだ。
酒井家には、いまなお子弟を市井の学校へはやらぬ掟がある。忠良伯も、家庭教師によって学を励んだ。日常は、酒井藩に伝わる武勇譚などに読み耽っているそうであるが、読書に飽きれば竿をかつぎだして家来を引きつれ、近くの湯野浜海岸はもちろんのこと、遠く鳥海山の裾が日本海へ没する吹浦や有耶無耶関址のあたりまで繰りだして祖先の練武にあやかるのであるという。
こんな次第で、いまも引き続き鶴岡市民の釣熱《ちょうねつ》は、東京以上のものがある。そして、どこか昔の藩風が、釣り人の気分や技術の上に残っているのである。
明治になってからも釣り人が磯から帰ってくるのに出会うと、きょうの勝負はいかがであったなどと問うたものである。やはり午前二時頃には海岸へ向かって出発した。ところで、その時刻に遅れて出発した者があると、それを指してあいつは物の役にたたぬと罵《ののし》ったのだ。
武士は、磯の巖上に立って竿を操ると戦場にある気分となった。ある朝、鈴木栄之助という若い藩士が、同僚に一足おくれて賀茂の港の海岸へ駆けつけると、栄之助がいつも釣り場としている岩の上に、他の士が熱心に釣っていた。栄之助は、これを見て少しむっとした。そこでわが輩の釣り場に先陣をつけるとは、ちか頃不都合ではないかと、うしろから呼ばわった。誰かと思えば鈴木か、おくれて参ってなに申すと、先着の釣り士がやり返したのであった。
『たとえ、おくれて参ったからとて、ひとの釣り場へ無断で足を踏み入れるとは、釣りの仁義をわきまえぬ不束者――そこ退け!』
『なにを小癪な――勢揃いにおくれたとあっては主侯に相済むまい。切腹ものじゃ』
先着の士は栄之助を罵倒して譲らない。
『たわけっ!』
栄之助の割れるような大声が、暁の海に響いた。と、同時に栄之助は伸べ竿を巖上に放りだすと脇差を抜いて振りかぶった。冴えた刀身に、折りから日本海の波近く傾いた下弦の秋月がきらめいた。頭の真っ向から、先着の武士は割りつけられた。血しぶきが散って、斬られた武士は波打ちぎわに倒れた。
鈴木栄之助は、釣り場からそのまま脱藩したのである。江戸へのぼって、浪々していた。その頃、江戸では清川八郎が浪士隊の募集をやっていた。栄之助は、清川八郎の名をきいて知っている。八郎は、わが故郷羽州最上川の岸に沿った清川村の出身で大した豪傑であるそうだ。八郎は、清川村の豪農の伜で、毎日のらくらと遊んでいるのを見て村人が、お前さんは行先どんな人間になるつもりだと問うたところ、八郎はそれに答えて、八郎と名がついているからには、鎮西八郎ぐらいにはなるだろう。と言って大笑いしたという話も栄之助は伝えきいている。
栄之助は、浪士隊に応募した。そして、一方の幹部となって文久三年に上洛した。その後浪士隊が江戸へ帰ってくると、頭領清川八郎は麻布一の橋で、小太刀の名人佐々木只三郎のために斬り殺された。しかし浪士隊は解散しなかった。酒井藩では、それに新徴組と名をつけた。
ところが、この新徴組は腕っぷしの強いのをたよりに、江戸中を暴れまわって手がつけられない。酒井藩では処分に困り、とうとう新徴組に解散を命じ、それぞれ帰国しろと厳達したのであるが、多くは脱走して再び京都へ上《のぼ》った。そのうち鈴木栄之助だけは故郷の鶴岡へ帰ってきた。鶴岡市の郊外に、大宝寺村というのがある。栄之助は明治になってから、大宝寺村の戸長、次に村長となって一生を終わった。まことに柔和な人品の高い、釣りの名人であったと、いまでも村民は語り伝えているのである。[#地付き](一五・一一・七)
底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
1953(昭和28)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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