士は栄之助を罵倒して譲らない。
『たわけっ!』
栄之助の割れるような大声が、暁の海に響いた。と、同時に栄之助は伸べ竿を巖上に放りだすと脇差を抜いて振りかぶった。冴えた刀身に、折りから日本海の波近く傾いた下弦の秋月がきらめいた。頭の真っ向から、先着の武士は割りつけられた。血しぶきが散って、斬られた武士は波打ちぎわに倒れた。
鈴木栄之助は、釣り場からそのまま脱藩したのである。江戸へのぼって、浪々していた。その頃、江戸では清川八郎が浪士隊の募集をやっていた。栄之助は、清川八郎の名をきいて知っている。八郎は、わが故郷羽州最上川の岸に沿った清川村の出身で大した豪傑であるそうだ。八郎は、清川村の豪農の伜で、毎日のらくらと遊んでいるのを見て村人が、お前さんは行先どんな人間になるつもりだと問うたところ、八郎はそれに答えて、八郎と名がついているからには、鎮西八郎ぐらいにはなるだろう。と言って大笑いしたという話も栄之助は伝えきいている。
栄之助は、浪士隊に応募した。そして、一方の幹部となって文久三年に上洛した。その後浪士隊が江戸へ帰ってくると、頭領清川八郎は麻布一の橋で、小太刀の名人佐々木只三郎のために斬り殺された。しかし浪士隊は解散しなかった。酒井藩では、それに新徴組と名をつけた。
ところが、この新徴組は腕っぷしの強いのをたよりに、江戸中を暴れまわって手がつけられない。酒井藩では処分に困り、とうとう新徴組に解散を命じ、それぞれ帰国しろと厳達したのであるが、多くは脱走して再び京都へ上《のぼ》った。そのうち鈴木栄之助だけは故郷の鶴岡へ帰ってきた。鶴岡市の郊外に、大宝寺村というのがある。栄之助は明治になってから、大宝寺村の戸長、次に村長となって一生を終わった。まことに柔和な人品の高い、釣りの名人であったと、いまでも村民は語り伝えているのである。[#地付き](一五・一一・七)
底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
1953(昭和28)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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