た。渋い喉で蝉丸の山入が始まる。『一中は親類だけに二段きき』という川柳がある。それを聴衆は神妙に聞いている。さすが美音会の会員達だと思った。無事にすむと急霰《きゅうさん》のような拍手が起こった。
 歌沢に入る前に二十分ばかりの休憩がある。背後にいる桃水君が、老人に向かって、
『一体芝派の節には艶がないね、今少し何とかなしようがあろうと思う』と言う。
『そうですね。どうも寅派の方に味があると思う』と答える。暫時談話がやんでいると、また桃水君が、
『あの婆さんは、一度止めたんだが、出て見るとやはり声が佳いものだから、近頃又始めたのだそうだ』
『ええ、とにかく芝派の元老ですからね』、芝土志の噂をしているらしい。桃水君は自ら三味線を執《と》って唄う自慢の歌沢が聞きたい。
 まず芝土志が現われる。例の如く江戸時代の渋味を大切に、皺の間に保存しておくような顔で跋《ばつ》の足には大きな繻子《しゅす》の袋を冠《の》せて、外見を防いでいる。見るから感じのおだやかなお婆さんである。三味線は清子である。淡雪と枯野を楽に唄い退《の》ける。非常な喝采だ。『これだから誰でも歌沢が好きになるのだ』と背後の方で誰かが
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